にげにげ日記

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(元)不登校ゲイの思索

「オープンリー」の微妙な二重生活

おさむです。

 

高校生の時に、全校生徒の前でカミングアウトして以来、「オープンリーゲイ」として過ごしています。大学生の時には知り合いみんなが知っていたし、人前で喋ったりいくつかのメディアでカミングアウトしたりもしていました。

 

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「オープンリー」だと自称してもいいと思っているのですが、とはいえ、それでもまだ微妙な二重生活を送らざるを得ない状況にあります。

 

「オープンリー」とはなにか

おそらく定義としては、「日常生活の人間関係においてほとんどのひとにカミングアウトしている状態」と、最低限、言えるでしょうか。あるいは「カミングアウトする/しないという選択肢を持たない状態」?

 

前者は、例えば極論ですが、道を聞かれた見知らぬひとにまでいちいちカミングアウトしたりはしない。限られた範囲の人間関係においてオープンである、ということでしょう。限られた範囲の周縁や外側のひとたちにまでカミングアウトするかどうかは、バリエーションやグラデーションがあって、ひとそれぞれ状態は異なるでしょう。

 

後者は、かなり割り切った状態ですよね。相手や相手との関係に応じて「カミングアウトするかしないか」と判断することがない、と。このような意味での「オープンリー」なひとって、そんなにいないような気がします。

 

どちらかというと前者の意味での「オープンリー」が多いんじゃないかなあ。

 

カミングアウト

 

カミングアウト

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ぼくのカミングアウト状況

 

先述したように、高校や大学ではおおっぴらにカミングアウトしていました。それから、家族にもカミングアウトしています。ただ、親戚にはしていません。メディアでカミングアウトした際に、もしかしたら知られているかもしれないなとは思いますが…(一度、そのようなことを匂わすような発言があった)。

 

あとは、いまの日常生活の圏内でいうと、通っている職業訓練校のひとたちにはカミングアウトはしていません。半年間だけの付き合いだと思うし(卒業後の付き合いがあるんだったらカミングアウトしておこうかなあとは思いますが…)、カミングアウトしたことでなんか問題が起こって通えなくなったら困るし…と。

 

あれ? これって、オープンリーじゃなくない…???

 

職業訓練校でカミングアウトするかどうか問題

毎日通って、毎日顔を合わせているひとたちにカミングアウトできていないって、それを「オープンリー」とは言わないように思います。

 

もちろん「彼女いるの?」とか聞かれたらカミングアウトしよう(嘘はつかないようにしよう)とは思っていたけど、そんなに深い関係にまでいきそうにないから、カミングアウトの機会もないでしょう。となると、おそらく卒業までカミングアウトせずに過ごすことになる。

 

ぼくとしては、こういう微妙な二重生活を送るのではなくて、サクッとカミングアウトしてしまいたいわけです。「バレているのかどうか」と気にする必要もなくなってスッキリするし。でも、こちらから急に切り出すのもおかしい。

 

懸念していたように、カミングアウトすることで生じる問題もあるでしょうけれど、それは意外とどうにかなるもんだと思っています。「オープンリー」としてしばらく過ごしてきた経験則で、なんとなくそんなに大問題にはならないし、問題が起きてもそれなりに対処できる気がする。

 

おわりに

「おわりに」もクソもないのですが、こんな感じで、「オープンリー」を自称していながらも、微妙な二重生活を送っています(たぶんこういう「オープンリー」なひとってそれなりにいるんじゃないかなあ)

 

さっさとカミングアウトしてしまいたいです。カモフラージュとか嘘をついたりとかできないので、早くオープンにしてしまいたい。

ぼくの青春「glee」への思いを綴りたい

おさむです。

 

これまで何度か書いてきたように、ぼくの人生、特に高校生~大学生の時期に熱中していたのが、アメリカの学園ドラマ「glee」です。

 

今回は、ぼくの青春時代を支えた、もっと言えば青春そのものだった「glee」への思いを綴りたいと思います。

 

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glee」とは?

glee」は、2009年から2015年の間に放映。アメリカのオハイオ州にある架空の高校で、歌に加えて踊りもやる合唱部のような、いわゆるグリー・クラブを舞台にしたドラマです。

 

特筆すべきは、キャラクターにさまざまなマイノリティがいること。人種、障害、セクシュアリティなどなどのマイノリティが当たり前のように出てきます。

 

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製作者のライアン・マーフィーがゲイだからか、特にLGBTイシューについてはしっかり取り組んでいた印象があります。カミングアウトやいじめ、恋愛、トランスジェンダーのトイレ問題、トランジション(性別適合)などなど、繊細なテーマをしっかり描き、評価されていたと思います。

 

 

glee」との出会い

ぼくが最初にこのドラマを知ったのは、とあるゲイの絵師さんがイラストを描いていたのを見たからでした。

 

それで「気になるなあ」と思っていたら、ちょうどNHKで放送していたので視聴しました。すぐに夢中になりました。続きが気になって、レンタルビデオ屋さんでDVDを借りてどんどん先を見ました。

 

初めてのキス

初めてのキス

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ゲイのキャラクター「カート」に感情移入しまくって、カートがいじめられたら一緒に泣いて、カートが仲間に支えられたらまた一緒に泣いて、カートが勇気を振り絞って戦うシーンでまた泣いて。そんな風に見ていました。

 

カートやブレイン(カートの恋人になるゲイのキャラクター)がファッショナブルな出で立ちで、よく蝶ネクタイをつけていたので、ぼくも蝶ネクタイを集めてつけていました。いまはもうやめちゃったけど(坊主に合わない)。あと全身紫色のコーディネイトで学校に通ったりもしていました(笑)。いま考えたら相当ヤバい。

 

glee」のサントラも全部借りて、一日中曲を聴いていました。辛いときでも「Don't stop believin'」を聴いたら元気が出ました。

 

 

glee」を見て良かったこと①ゲイ・プライドを持てた

いまでこそ国内のドラマでもゲイのキャラクターがポジティブに描かれていますが(ゲイ以外のセクシュアリティはあんまり出ませんね)、当時はそんな状況ではなかったので、海外のこのドラマを見ることで自尊心(ゲイ・プライド)を育むことができてよかったなあと思っています。

 

自尊心が育まれたことも相まって、ぼくは全校生徒の前でカミングアウトするに至りました。

 

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glee」を見て良かったこと②洋楽を聴くきっかけになった

当時は洋楽なんて何も知らなかったのですが、「glee」をきっかけにたくさんの名曲を知ることができました。ミュージカル映画もたくさん見ました。

 

glee」を見ていなかったら、洋楽を聴く機会なんてなかったかもしれない。あったとしても、こんなに熱中して聴くような経験ではなかったかもしれない。そう思います。

 

そして昨年には、新宿二丁目で開催された「glee night」に参加してきました。大好きな曲が延々と流れて、それをみんなと共有できる空間。すばらしい体験でした。

 

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glee」を見て良かったこと③いろんなひとと話題を共有できた

特にLGBT界隈のひとたちは、「glee」を知っている/見たことがある/好きなひとたちが多いような気がします(だからこそ、放映開始から10年経っても「glee night」なんてイベントが新宿二丁目で開催されるわけですよね)

 

glee」の話題で盛り上がったことは数え切れません。いまの彼氏とも「glee」は共通の話題です。

 

glee/グリー ザ・コンサートムービー (字幕版)

 

glee/グリー ザ・コンサートムービー (字幕版)

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大学生のときには、ある英語の授業の教材に「glee」が使われて、先生とすぐに意気投合しました。毎週この授業がすごく楽しみでした。

 

 

おわりに

改めて振り返ってみて、高校生のときに「glee」と出会えたことが嬉しいです。ぼくの人生に多大な影響を及ぼしているし、「glee」がなかったらいまのぼくはないとすら思います。

 

いまの高校生などユースのひとたちは、どんな作品を見て自尊心を育んだり影響を受けたりしているんだろう? LGBTに関する書籍や映像作品もずっと増えてきているから、そういう作品には事欠かないって感じなのかなあ。

全校生徒の前でカミングアウトした話(後編)

前編はこちら

 

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初めてのカミングアウト

高校2年生の夏、所属していた部活動の友人から呼び出されました。その友人はバイセクシュアルなんだと言いました。ドキッとしました。同時に、冗談じゃないかとも思いました。

 

でも、話を聞いていると、どうやら本当みたいだと思いました。それで、ぼくも恐る恐るカミングアウトしました。人生初のカミングアウトでした。最初、なぜか「ゲイ」と言うのが躊躇われてホモフォビアがあったから?)、「自分もバイセクシュアル」と言いました(あとで訂正しました)

 

それからというもの、その友人とはたくさんの話をしました。何時間も学校で話し続けたり、夜中までメールのやりとりをしたりしました。どの先生が好きか、将来はどう過ごしたいか、◯◯はゲイだと思う、などなど。

 

ものすごく開放的で、楽しい時間を味わいました。

 

「ホモキャラ」のぼくと、ゲイのぼく

一方で、<前編>に書いたとおり、ぼくは友人らの間で「ホモキャラ」の座に就かされていました。

 

クラスの友人らの間では「ホモキャラ」のぼくという<キャラ>があって、部活動の友人との間ではその<キャラ>を外した、肩の力を抜いて開放的にコミュニケーションが取れるゲイのぼくがいました。

 

次第に、この状況に身が引き裂かれるような思いを抱くようになりました。

 

<キャラ>を脱いだり着たりして過ごす毎日が、どうしようもなく無為で、果てしなく悲しいことだと思いました。そして、その背景に”明確に”存在している差別の存在を認識しました。

 

差別を可視化する

当時のぼくは、差別が解消されずにいる状況を次のように分析していました。

 

まず、差別があることによって、当事者は隠れるしかなくなっている。当事者が隠れると、「どこに差別の被害者がいるのか」見えなくて、それで差別が放置され、のさばってしまう。差別がのさばると、さらに当事者は奥深くに隠れていく…。

 

この負のループによって、差別はますます深刻化し、当事者はカミングアウトできない状況にどんどん追いやられる(クローゼットに押し込まれる)

 

であるならば、この負のループを断つためには、当事者=差別による被害者が名乗り出ることが重要なのではないかと思いました。*1どうにかして名乗り出られないか、と考えました。

 

表彰式でのプロジェクト

幸運なことに(?)、その機会は得られる見込みがありました。表彰式です。

 

部活動で好成績をとった生徒が、体育館で、全校生徒の前で表彰されるというあの行事です。そう、たまたまぼくも表彰されることになったのです。

 

バイセクシュアルの友人と計画を立てました。

 

表彰式では、生徒に発言するチャンスは与えられない。ただ黙って立って、黙って校長から表彰状を受け取って、拍手されて、黙って壇上から降りる。終わり。

 

だったら、喋るチャンスがないのだったら、ビジュアルでアピールするしかない。

 

Born this way

イデアは、<前編>にも出てきたあのアメリカの学園ドラマ「glee」から拝借しました。

 

ボーン・ディス・ウェイ

 

ボーン・ディス・ウェイ

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glee」第2シーズンで、レディー・ガガの曲「Born this way」をみんなで歌うシーンがあります。みんなそれぞれ自分の「ひとと違うところ」をTシャツに書いて、歌って踊るのです(ゲイのキャラクター・カートは、「LIKES BOYS」と書いています)

 

 

これだ! と思いました。これをやろう。白いTシャツを買ってきて、ゲイであることを書いて、それを着て表彰式に立つ(私服の高校でした)

 

そして、実行しました。

 

Tシャツの上にパーカーを着て、何食わぬ顔でほかの表彰される生徒とともに体育館の壇上に立ち、ぼくの名前が呼ばれると同時に、パーカーを脱ぎました。

*1:当時の考えです。いまは、被害者の有無とは関係なく、差別があることそれ自体が問題なのだと考えています。

ひとと1ヶ月以上交際するのは初めて

おさむです。

 

高校生の頃、恋多きゲイだったのですが、恋する相手は必ずノンケでひとつもうまくいきませんでした。

 

大学生になって、初めてひとと付き合う経験をしました。それから何人かと付き合ったのですが、いずれも1ヶ月以内に終わりました。愛想を尽かされて向こうから一方的に振られたり、音信不通になったり、嫌気が差してこちらから振ったり。

 

原因はよく分かりません。絞りきれない、というか。

 

1ヶ月以内に終わってしまう理由

ただ1つ言えることは、出会ってから付き合うまでの期間が短すぎるということ。そのせいで、相手との相性をしっかり見定められないままに交際を始めて、1ヶ月経つ頃までにボロが出てきてしまうというか、齟齬が生じてしまうというか。

 

当然、必ずしも長続きすればいいってわけでもないし、1ヶ月以内に終わってしまった付き合いでも良い思い出はあります。でもやっぱり、もっと長く付き合ってみたかった。次第に、長く付き合えないことがコンプレックスみたいに思えてきていました。

 

いまの彼氏と1ヶ月以上続いている理由

先ほど、付き合うまでの期間が短いせいですぐ別れてしまうと書きましたが、しかし、いま約2年付き合っている彼氏とは出会って1~2ヶ月くらいで付き合い始めています。スピーディ。

 

それでもこんなに長く付き合っていられるのは、たまたま相性が良かっただけなのかもしれないし、彼氏の懐が深いおかげかもしれません(『私のおっとり旦那』の夫さんみたいな、おおらかなひとなのです)

 

私のおっとり旦那 (ガンガンコミックスpixiv)

 

私のおっとり旦那 (ガンガンコミックスpixiv)

私のおっとり旦那 (ガンガンコミックスpixiv)

 

 

少なくともぼくの側は、大学生の頃からほとんど大きな変化はないような気がする。相変わらず向こう見ずだし、自分勝手だし。いずれも大学生の頃から一貫しています。

 

長く付き合うということ

1ヶ月以内に終わってしまう恋愛をしていた頃は、「半年とか1年も付き合っていると、話題とか尽きてくるんじゃないの」と思っていました。話すこともなくなるだろうし、愛想も尽きてきて、やっぱり振られたり振ったりするんだと。

 

でも、そうとは限らないのだといまは思えます。

 

短いスパンで買い替えてしまうのではなくて、長く使い続けるアイテムみたいな感じで、ひととの付き合いを捉えられるようになったような気がする(ちょっと例え方が悪いか…)。この感触は、数年前まではまったく持てなかった。イメージすらできなかった。

 

約2年が経ったいまでも、彼氏と話すのは楽しいし、話題も尽きません。

 

これからのこと

もうじき付き合って約2年になります。記念日にはなにかお祝いしたいと思います。約2年間も時間をともにできたこと、ありのままのぼくを受け容れてくれていることに感謝したい。

 

当然、いまの彼氏との関係もいつか終わってしまうかもしれません。終わらないように頑張りたいとは思いますが、可能性として、そんな日が来るかも分かりません。

 

でも、そんなに意識して肩肘張らずに付き合っていけたら、と思っています。不安に足を掠め取られずに、しっかり一緒に過ごす時間を楽しんでいきたいです。

世界が壊れた感覚

おさむです。

 

精神科に通いながらトラウマの治療を進めています。

 

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治療を進めているうちに段々ハッキリしてきたことは、ぼくが「世界が壊れた感覚」を持ちながら過ごしているということ。

 

これはぼくだけに限らず、何らかのトラウマティックな体験をしたひとに共通することらしいです。

 

世界が壊れた感覚とは

ぼくらはこの世界をある程度信頼して過ごしています。(積極的に/消極的に)信頼しておかないと、満員電車に乗ることも、知らない誰かのつくった食べ物を食べることも不可能です。

 

そんなある日、その「信頼」を裏切られるような出来事に巻き込まれる。「信頼」は(いとも簡単に)瓦解し、それがトラウマとして残ってしまうことがある。

 

すると、この世界が壊れ始めます。世界の不条理さ、不合理さが露見して、まともに生活を送れなくなってしまう。自分の安全圏を守ることだけで精一杯になってしまう。これが「世界が壊れた感覚」です。

 

ゲームのバグ

この感覚、ぼくが大学生のときに性暴力を受けた際には、「特定のプレイヤーだけがバグるゲームみたいだ」と言語化しました。

 

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すべてのプレイヤーが平等にバグるのではなくて、「特定のプレイヤーだけが」「不平等に被る」というところがミソです。

 

あるプレイヤーにとっては、このゲームは平等にできていて、努力に対応した報いを受けられる、いかにも信頼できるゲームである。しかし、別のあるプレイヤーにとっては、不平等で不条理で、信頼もクソもないゲームである。

 

こんな認識をしていました。

 

そもそも世界は不条理である

でもね、考えてみれば、すべてのプレイヤーにとって根本的に不条理で不合理なのが、この世界です。

 

偶然産み落とされて、運命に翻弄されつづけ、そして理不尽な評価を受けつづけ、そしてあと少しで死んでしまうこの人生の不条理は、よく考えると不幸そのものだ(中島義道『働くことがイヤな人のための本』2001年、日本経済新聞社、p.188)

 

働くことがイヤな人のための本―仕事とは何だろうか

 

働くことがイヤな人のための本―仕事とは何だろうか

働くことがイヤな人のための本―仕事とは何だろうか

 

 

この社会の制度や文化における不条理や不合理というものが一方であって(それは是正されるべき)、他方では、この世界が(人生というものが)そもそも内包している不条理や不合理というものがある。

 

つまり、みんなで共有している「平等で、信頼できるこの社会」というイリュージョンが解けて、生身の<世界>を直視してしまうのが、「世界が壊れた感覚」ということであって、そもそも世界は壊れている(とイリュージョンが解けたひとは思ってしまう)

 

私たちは、生まれつき各人に与えられたものは偶然だという不条理を悲しくなるほど知っているにもかかわらず、そのことには目をつぶって、それ以外はできるだけ偶然を排してゆくふりをする。そうすると、ますます生まれつき才能や能力の勝っている人は正当化され、そうでない人はジダンダを踏んでも相手にされなくなる(同上、p.91)

 

壊れた世界で生きていく

こんな壊れた世界で生きていくにはどうすればいいんでしょう。

 

努力は必ずしも実らないし、明日死ぬかもしれないし、生まれてきた意味なんて無いし、それなりに長生きしたとしてもせいぜい数十年程度。絶対的なことは何もない。

 

こんなことを書くと青臭さが漂ってきますけれど、でも、いまのぼくにとってこれらはクリティカルな問いなんです。シニカルな人生観というのではなくて、ただ正直にこの事実と向き合いたい。向き合わなければやっていけない。

 

壊れた世界で生きていく。

不条理と不合理をこの身に受けながら、サバイブしていく。

 

結論はまだありません。また何か進捗があればブログ書きます。