にげにげ日記

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(元)不登校ゲイの思索

「恥辱」の感情と向き合ってみる——当事者研究①

おさむです。

 

ぼくはいま精神科に通っていて、複雑性PTSDの治療を行っています。認知行動療法とかスキーマ療法といわれるような治療をやっています。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

治療を始めてまだ間もないのですが、「恥」というスキーマ(無意識的な考え方・受け止め方)がぼくのなかで重要なキーになっているのではないかと考えるに至りました。

 

「恥」という感情は、日本人が持つことが多い、日本は恥の文化なのだ、と精神科の先生は言っていました。

 

そこで今回は、この「恥」という感情について考えたいと思います。その際、「当事者研究」という方法論でアプローチしてみようかなと思います。

 

当事者研究という言葉を自分なりに説明すると、「権力関係のあるなかで、ある問題の当事者について、非当事者(医師・研究者など)が研究する」という従来の<研究>ではなくて、「『ある問題の当事者』が自らについて研究する」というものが当事者研究です。

 

 

ゲイサークルでの恥辱

1~2年前まで、とあるゲイサークルに入っていました。ゲイコミュニティへの所属感を得られたことは楽しかったですが、人間関係でしんどい思いもしました。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

リンク先の記事にも少し書いたのですが、サークルのメンバーの1人(以下、Aさん)が、サークル内で複数のひとと関係を持っていたようで(振り返ると、ぼくにはそう見えます)、それに巻き込まれたことが恥辱的な体験でした。

 

決定的だったのが、サークルで合宿を行ったときのことです。ぼくはAさんに好意を抱いていて、両思いだったと思います(いま考えると、どうして好きだったのかわからないけれど)。サークル内でも、「両思いの2人」として見られていたように思います。合宿先へも2人で行きました。

 

しかし、夜にそのことが起きます。ほかのメンバーが遊んでいるなか、ぼくとAさんは疲れて眠くなって、2人でおしゃべりしながら布団に入りました。しばらくすると、もう1人のメンバーもやって来て、Aさんと同じ布団でいちゃいちゃし始めました。

 

ぼくはショックでした。「ああ、Aさんは、別にぼくに好意はないんだ。ただいろんなひとといちゃいちゃしたいだけなんだ」。そう思って、ガッカリしました。サークルのみんなに可哀想なやつだと思われる、笑われる、恥ずかしい、どういう顔をすればいいんだろう。考えがグルグル回り続けて、ぼくは眠れなくなりました。旅館の窓辺で毛布にくるまって、朝まで過ごしました。

 

朝になって、みんなで夕方頃まで観光して帰る予定でしたが、ぼくはひとり帰路につきました。

 

ホントに恥辱的な体験でした。

 

「恥辱」を受けたときの反応

このような恥辱的な体験をいくつか思い出してみて、「恥辱」を受けたときの反応について、その共通項を見出していきたいと思います。

 

ぼくは恥辱を受けると、まずショックで失語します。頭のなかで考えがグルグル回って、何もできなくなります。そして、そこから脱出するために、その場を離れます。場所を変えるだけで景色が変わるし、移動する=身体を動かすことで頭が少しリフレッシュされます。だから、とにかく移動する。その場を離れる。

 

その際、荷物を置きっぱなしにしていたら、それを回収しなければなりません。断りなく離れた場合は、あいさつをしなければなりません。まあ、必ずしなければならないというよりかは、「したほうがいい」ということですが。いずれにしても、その場にいるひとには多少の迷惑をかけることになります。でも、気にしなくていいと思っています。あとで「ごめんなさい」や「ありがとう」と言えばいいだけなのではないかと思っています。

 

というか、もうそうするしかないのです。余裕がない。その場に居続けたら、たぶんやがて溶けて無くなるんだと思っています。ぼくはナメクジで、塩をぶっかけられてるんだから、そりゃ逃げます。荷物は置いていくし、あいさつもできません。ごめん。

 

欠陥・恥スキーマ

伊藤絵美『ケアする人も楽になる マインドフルネス&スキーマ療法 BOOK2』では、いくつかのスキーマ(思考の基盤みたいなもの)のうちの1つとして、「欠陥・恥スキーマ」というものを紹介しています。これがもうぼくにピッタリくるのです。

 

長くなりますが、引用します。

 

[解説]これは、「自分は人間として欠陥のある存在だ」「自分は根本的にダメな人間だ」「自分は生まれつき欠陥人間だ」「自分という人間は欠陥だらけで、よいところなんて何もない」という“自分は欠陥人間だ”というスキーマに、「そういう自分は人間として恥ずかしい存在だ」「こんな自分が知られたら恥ずかしくて生きていけない」という“恥”の感覚が合わさったスキーマです。
*このスキーマを持つ人の特徴……基本的に、自分の「欠陥」が他人にバレないように振る舞うことが多い。具体的には、欠陥がバレないよう、そもそも人と一緒に行動しない、人と個人的な話をしなかったりします。人に評価されるような状況をそもそも避けてしまうことも少なくありません。自分のちょっとしたしくじりに対して過敏に反応し、しくじった場面に似た場に二度と行かなかったり、自分のしくじりを目撃した人とのつきあいを断ってしまったりします。そういう人は自分の欠陥がバレて他人から拒絶されることをひどく怯えているのです。一方、「自分の欠陥がバレたらまずい」「そんなことがあったら恥ずかしすぎて死ぬしかない」「本当は1つも欠陥のない人間でありたい、嘘でも自分でそう思いたい」という人は「だから完璧に振る舞わなければならない」というルールを自分に課し、物事にやたらと完璧に取り組もうとする場合もあります。

 

ケアする人も楽になる マインドフルネス&スキーマ療法 BOOK2

ケアする人も楽になる マインドフルネス&スキーマ療法 BOOK2

 

 

ぼくにとって「恥辱」の感情の存在がここまで大きい背景には、「自分は欠陥人間だ」とどこかで強く思っているからかもしれません。
 
そうなのかもしれないなあとは思うのですが、まだそこまで深く分析できていないので、この件は一旦保留にします。
 

それでもそこに居続けること

最近気づいたことがあります。恥辱を受けたからといって、必ずしもそこから離れなければならないわけではないということです。なんとかしてそこに「居続ける」こともできるのです。ナメクジのぼくには難しいだろうけれど。

 

恥辱を受けたらそこから去る。去る去る去る。そのようにして、常に移動し続ける暮らし方もあると思います。でも、そうじゃない暮らし方もある。というか、この社会は何千年も前から定住社会なので、そちらがメインの設計になっているのではないでしょうか。

 

だとすれば、なんとかしてそこに「居続ける」という選択を迫られることがときにあります。その選択をするためには、事前にある程度の条件が整えられていないといけないと思います。疲労困憊していないか、頼れるひとがその場にいるか、相談機関にアクセスできているか、自己責任論に足を突っ込んでいないかなど。

 

そしてやっぱり、なによりも重要なのは「いざとなったら逃げてもいいんだ」と思えるということではないでしょうか。

 

その場を離れてもいいけれど、居続けることだってできる。でもやっぱり、いざとなったら逃げてもいい。

 

とても難しそうだけれど、こういうスタンスを持てるようになりたいです。そして、恥辱の受け止め方がハードになっている可能性があると思うので、そこは今後もっと相対化していきたい。

 

そんな感じで、また進捗があったらブログ書きます。