にげにげ日記

にげにげ日記

(元)不登校ゲイの思索

【ラスト1ヶ月!】職業訓練5ヶ月目が終わった。

おさむです。

 

昨年11月から始まった職業訓練も、早いもので、あと1ヶ月で終了です。いよいよか…。

 

4ヶ月目と比べて

この1ヶ月間は、4ヶ月目と比べてみると、変化の月だったなあと思います。授業で新しい内容PHPWordpressDreamweaverなど)が次々と始まって、また「そろそろ就活やりましょうね」という流れ?空気?みたいなのができてきたような気がします。焦る。

 

WordPressレッスンブックHTML5&CSS3準拠

 

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4ヶ月目が終わった時点では、このように書いていました。

 

この間、授業では、はじめて複数ページのWebサイトを制作したり、jQueryプラグインをいくつか実装してみたりとかやりました。いよいよ本格的なWebサイト制作が始まったな―って感じです。

 

先月の記事では、「言語の種類が増えてきて大変」と書きましたが、それから1ヶ月経つと、そういう混乱は減ってきました。

 

ぼくとしては、訓練が始まって間もない頃のほうが大変で、いまはだいぶ楽です。当初はプログラミングがなんなのかも分からずあたふたしていましたが、いまは基礎ができてきたのか、そんなにあたふたせずに授業についていけています。Progateやってよかった(いまは一時的に有料会員をやめています)

 

これまでやってきた内容をさらに深めるような授業ばかりで、そんなに大変ではない時期だったんですよね。

 

ちょっと余裕のあったこの時期に、バナーの自主制作をがんばっておいてよかった。いまはもう全然余裕ないです。

 

就活が始まる(もう始まってる)

なんで余裕がないのかというと、授業の復習をやりながら、ポートフォリオを作っていかないといけないから。そろそろ就活を始めないといけないから。

 

会社の説明会が開かれたり、インターンシップのお知らせが来たりしています。クラスの中でもすでに何社も面接を受けているひともいます。

 

いやー、とうとう始まっちゃったか、就活。いよいよかー。なんかまだ心の準備ができてないっていうか、ぼくホントに就職とかできんのかなっていうか。うわー、とうとう就活かー、うわー。

 

と、こんな感じで二の足を踏んでいます。

 

とりあえずポートフォリオ制作ですね。これを頑張っています。うまく作りたい。いや、デザインも大事だけれど、それはあとでブラッシュアップしていけばよくて、いまはとりあえず完成させることを目標にすべきかも。

 

人間関係について

このように、だんだん追い込まれてきているんですが、一方で、人間関係はわりと良好になってきているなあという印象です。

 

この1ヶ月でカミングアウトもしましたし(その後はやってないんですが)、同じクラスのひと数人で飲みに行ったりもしました。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

最初の三ヶ月でめちゃくちゃ思い悩んでいたのが馬鹿みたいに思えるくらい、いまは良好で、楽です。普通に楽しく会話できています。これまでちょっと肩に力が入りすぎていたのかもなあ。

 

授業の進行とコロナの影響について

さて、それで、授業の進行についてなんですが、他のクラスと比べてかなり遅れていると知らされました。

 

これまで精一杯やってきたつもりだったけれど、かなりハードだったように思うけれど、それでもずいぶん遅れている、と。

 

それに加えて、コロナウィルスの影響で就活の雲行きが怪しい。

 

なんか、自分のせいじゃないことで思いっきり行路が左右されているようで、すごく悔しい。無力感できつい。

 

もちろん、こんな状況で毎日電車に乗って学校へ通って、密閉された空間で授業を受けることのリスクもしんどいんだけれど、だからといって休んでしまっていいのか、というプレッシャーみたいなのも感じます。

 

めっちゃきつい!!!!!

  

おわりに

はあ、いよいよラスト1ヶ月。

 

ポートフォリオを完成させて、面接をいくつか受けてみようと思います。正直気が乗らないんですけどね。でもせっかく学んだわけだし、面接の場でどのように評価されるのかは気になるし、やってみようと思います。

 

1ヶ月後にどんな報告ができるでしょうか。

シティズンシップを相対化する。

おさむです。

 

先日、インドカレーを食べに行ったら、備え付けのテレビで「ハートネットTV」という番組が流れていました。障害者の就労がテーマの回みたいでした。

 

そのテーマについて、これからの展望を問うた司会者に対して、スタジオに来られていた当事者の方は「みんなもっと知識をつけてほしい」というようなことを言っていました。

 

一方で、おそらく当事者ではないあるタレントの方は、「それも大事だけど、知識だけ身につけるのではなくて、現場に出てたくさんの当事者に出会うことも大事。お互い傷つきあったりもして、そうやって少しずつ分かりあっていく」というようなことを言っていました。

 

お互いに傷つけあうぼくたち(?)

ぼくも以前、知識をつけることについてブログに書きました。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

「知識がないなら発信するな」とは書いていません(ここ重要)が、そのトピックやテーマにおいて被害や抑圧を受ける「当事者」の存在が想定されるのであれば、やはり知識がない・わからないうちは軽々しく言及しないほうがよいのではないかと考えを書きました。

 

先の番組でいえば、当事者の方の発言に近いでしょうか。「とりあえず現場に出てみる」ということの意義も分かりますけれど、不用意に当事者を傷つけないために、まずある程度の知識を身につけることの重要性があると思う。

 

例えば、タレントの方の発言の中で、「お互い傷つけあったりもして」という箇所があります。これって、あたかも対等な関係の中で傷つけあっているように言っているけれど、マジョリティとマイノリティの権力関係や立場性を考えると、決して対等ではない。

 

マイノリティ=当事者がずっと違和感を持って、負担を背負わされて、差別されて、もう我慢できなくなって、ドーンと怒る。マジョリティはそれでようやく自分がやったこと(の一部)に気が付く。でもすぐには反省しない。「あなたにだって非はある」とかなんとか言う。お互いに非難しあう。

 

最後の場面だけを目撃すれば、「お互いに傷つけあ」っているように見えるけれど、実際にはマイノリティ=当事者のほうがずっとずっと割を食わされてきたわけです。 

 

アイデンティティとシティズンシップ

大体ここまでが、これまでぼくが主張してきたことなんですけど。実際には、もっと状況は複雑で。いろんなことが言える。いろんなことが考えられる。

 

例えば、『Over vol.2』のインタビューで、千葉雅也は、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』の内容を引用しながら次のように言っている。

 

自分のことじゃなくても世界一般の正義の問題として活動が必要だっていうのはシティズンシップの論理で、それに対して当事者が自分のアイデンティティの問題として運動に関わるっていうのはアイデンティティの論理で、今はそのシティズンシップの論理っていうのが強くなってるわけですよ。これはやや業界的な話なんだけど、1990年代くらいってまだ伏見憲明さんなんかのプレゼンスが今より大きかったと思うし、もうちょっとまあ二丁目飲み屋的なノリっていうのがゲイ言説にもあった。そのあと、2000年代に大学人がやっとLGBTのことを研究したものを出してきたんだけど、その大きな方向性って反二丁目だったと思います。リーダーシップを取っていたのは、どっちかっていうと、ニチョノリに乗れない人たち。それがアイデンティティの問題よりシティズンシップの論理っていうのが強く出てきた1つの理由ですよ。それで、弱者を弱者のままでどう救済するかっていうロジックが強く出てくる。で、それに対して、やっぱり強さをと言うと、そういうのが嫌なんだよという話になってくる。(p.134)

 

Over vol.02

 

 

まさにこういう対立構造をなぞってるなあって思います。

 

ぼくもニチョノリみたいなの苦手だし、

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

被害や抑圧を受ける当事者がいる問題について、よく分からないのなら発言しないほうがいいという主張も、まさにシティズンシップの論理。

 

一方で、微妙なところだけど、『LGBTのひろば ゲイの出会い編』に掲載いただいた原稿では、シティズンシップの論理への従属的な、マジョリティからの質問になんでも、わかりやすく答えて差し上げる「模範的なマイノリティ」像への抵抗を示したつもり*1

 

それは、アイデンティティの論理とシティズンシップの論理のあいだで葛藤した結果だ、と思う。

 

葛藤、拮抗、緊張関係

シティズンシップの論理がすべて悪だというわけではないだろう。ぼくはこれからも、「被害や抑圧を受ける当事者がいる問題について、よく分からないのなら発言しないほうがいい」と言っていくと思う。

 

その一方で、アイデンティティの論理というものについてもっと考えてみたいと思う。マイノリティとしての矜恃。それをしっかり考えてみたい。

 

千葉雅也は、インタビューで、重要なのはアイデンティティの論理とシティズンシップの論理との拮抗、緊張関係が大事なのだと言っています*2

 

現状、シティズンシップ/反シティズンシップ(≒反ポリコレ)という対立が目立ちますが(こないだの一件もこういう対立構造だったんじゃないかなあ)、それを越えて、アイデンティティの側から問題を照射していく、そこに緊張関係をつくりだしていくという動きも必要なのでしょうね。

 

ちょっとまだ考えがまとまりきらないのですが、今日はこの辺で。アデュー。

*1:こういうのに付け入って、理解するつもりもないのに不誠実な質問を繰り返すことを「シーライオニング」っていうらしい。

*2:興味深いなと思うのが、冒頭のハートネットTVにおける出演者の主張=論理が、この意味では反転しているように見えること

より良い暮らしを求めて——美容と自尊心

おさむです。

 

コロナウィルスの影響がさまざまなところに出ています。

 

休講になっている職業訓練校もあるみたいだけれど、ぼくが通っているところは、台風の日でも積雪の日でも開講していたと先生が言うくらいだから、最後の最後まで授業をやるんでしょう。

 

 

そうはいっても、刻一刻と状況が悪化していくさまを見ていると、またこれからの就活がどうなるんだろうと考えると、不安でいっぱいになってしまいます。

 

このところ、生活がボロボロ。

 

朝はダラダラして起きれなくて、学校にはなんとか通っているんですが、帰りにお酒とおつまみを買って酔っぱらって寝るみたいな生活を送ってしまっています。

 

不安が生活を壊しているように思います。

 

コロナウィルスの影響で、区がやっているトレーニングルームは閉まり、去年からやっていた暗闇ボクシングも退会してしまいました。つまり運動不足。

 

過食と運動不足のコンボで、体重の増加が止まりません。

 

もとはといえば、体重が増減しやすい体質(っていうか、生活?)。ここ数年だと、大学でハラスメントを受けて約15kgの増量。そこから頑張って戻したかと思えば、いまの彼氏と付き合い始めて、食事量が増え、リバウンド。10kgくらい太ったと思う。

 

こんな状況だと、痩せることを目標にするよりかは、より良い暮らしを実現させることを目標にしたほうがいい気がしてきます。太っているか痩せているかではなくて、ちゃんと自分が望む暮らしができているか。

 

1日のなかで運動の時間を確保すること。バランスの良い食生活を送ること。ストレスを溜めすぎないこと。当たり前のことばかりですが、それを実現させるのがいかに難しいか。

 

きっとその難しさは、自尊心の問題とも絡んでくるのでしょう。あんまりそっちにフォーカスしすぎると、迷宮入りするか精神科に駆け込むかしかなくなってしまいそうなんだけど(もうすでに駆け込んでるけどw)

 

そんで、『美容は自尊心の筋トレ』って本があって、いまのぼくに必要な気がする!と思って本屋に行ったところ、間違えて(?)こちらの本をぶらさげて帰ってきてしまいました。

 

 

Queer Eye LOVE YOURSELF  LOVE YOUR LIFE

 

 

(なぜか日本語訳版がAmazonになかった)

 

Netflixオリジナルの番組「クィア・アイ」のオフィシャルガイドブック。「クィア・アイ」は、それぞれ専門(食事、美容、ファッション、カルチャー、インテリア)を持った5人のゲイ(通称「ファブ5」)が、依頼者を変身させるというやつ。日本でもよくありますよね。

 

ただ日本のそれと違うなあと思うのは、とかく痩せろとか化粧しろとか言ってこないこと。依頼者の置かれている状況や背景を把握しながら、そのなかでできることを伝授し、依頼者が自ら変身するのをサポートする。それが「クィア・アイ」。

 

 

落ち込んでやる気がでないときとかに、この番組を見ると元気が出るし、美容とか食事とかに気を遣ってみようと思えて、実際にそれをやってみるともっと元気になったりして。自尊心の問題って、それを「心理学的に」捉えられる一方で、もっと物理的な何かが大きく影響しているものなのかなあなんて思います。要するに、リソースの問題なのかなあ、と。

 

数週間前のことですが、ある友人が今年の目標に「美容と健康」を掲げていると話していて、ぼくもそれを採用することにしました。「適切にお金を使うこと」に加えて、「美容と健康」。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

より良い暮らしを求めて、ちょっとだけ頑張ってみたい。

職業訓練校でカミングアウトしちまった。

おさむです。

 

とうとう、この日がきた。

 

いま通っている職業訓練校でカミングアウトをしました。

 

高校生のときからオープンリー・ゲイをやってるんで、それなりの回数カミングアウトしてきたんですが、ひさびさに緊張したカミングアウトでした。

 

あんたってゲイ?

訓練校に、めちゃくちゃゲイっぽいひとがいます。*1短髪で日焼けしていてヒゲ生えてて、ジムに通っていて、ヨガにも行っていて、学校ではよくプロテイン飲んでる。話し方もちょっと柔和な感じ。

 

そのことを友達や恋人に話すと、「ゲイだったとして、どうするのよ」って言われるんだけど、まあホントその通りなんだけど、一度気になり始めると確認したくてたまらなくなるんですよね。

 

それで、ちょっとずつ会話するようにして、途中ちょっとカマかけてみたりして、あるとき、聞いた。「○○さんって、ゲイですか?」と。

 

違うって言われた。ええええ!うそ。

 

「よく言われるんですけど、違いますよ。彼女いたことあります」って。

 

なにこの恥ずかしい勘違い。あり得ない・・・。

 

レッツ、カミングアウト

そんなこんなで、「え、おさむさんはゲイなんですか?」と聞き返されて、「はい、そうです」ってカミングアウトしました。「こんな流れでカミングアウトって、え、どうなっちゃうんだろう」って緊張しましたが、なんてことなく終わりました。

 

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なんかそのひとはLGBTの友達も多いみたいで、カミングアウトもあっさり終わり、特に嫌なことを言われたとかもなし。

性の話とかアレコレ質問してくるのはちょっとアレなんですけれど、別に嫌な感じはしないし、「それ聞くんだったら、あなたも答えてよね。平等にしようよ」って感じでこちらからもガンガン聞いてるし、まあオッケー。

 

とりあえず、このカミングアウトは成功かなあ(恥ずかしい勘違いは置いておいて・・・)

 

成り行きで行ったカミングアウト。今後も学校内でやるのかどうかは分からないけれど、たぶん聞かれたら今回同様あっさり言っちゃうんだろうなあ。

 

矛盾するようだけど、曖昧なことだけど

ところで、カミングアウトをしたら、やたらと性の話を振られるってこと、よくあります。みんな性の話をしたくてたまらないんだよねって、フーコーか誰かが言ってたっけ。

 

ぼくとしては、ゲイであることはアイデンティティにも関係する広範な話だと思っていて、セクシュアルなことだけに還元されるのってちょっと気分悪い。当人にそんな意図はなかったとしても、結果的にそう受け止めてしまう。「ほかのひとにはそんなズケズケと聞かないはずなのに、なんで?」って。カミングアウト=性の話なんでも聞いてどうぞ〜ってことじゃないし。

 

もちろんそれでお互い打ち明けあって、すごい仲良くなれたって事例もあるだろうけど。一般的に、カミングアウトされたからって性の話ばっかり振るのって具合悪いんじゃないかなあ。

 

でも、他方で、やっぱりセクシュアルマイノリティって、性に関するマイノリティのことであって、ときにグロテスクな「性」の問題を抜きにしては語れないわけです。グロテスクな部分には目を向けず、経済効果とかアーティスティックな才能とかキレイな部分だけを見て「理解増進」とか「受容」とか言ってほしくない。

 

普通だけど、でもやっぱり普通じゃない(てか、普通じゃなくても構わない)

性的なことだけに還元されるべきじゃないけれど、でもやっぱり性的な存在である。

 

こういう曖昧なことって、運動の現場ではあんまり好まれなくて、「ぼくらは普通ですよ!愛は愛!」みたいな、ハッキリした言説が使用されがち。

 

でもやっぱり、ぼくはぼく個人として、こういう曖昧なことを言い続けたい。これまで運動してきたひとたちがそう言い続けてきたように。

*1:ひとことで「ゲイっぽい」といっても、実際のところゲイにはいろいろいて、一括りにできないんだけど、ここではゲイコミュニティのなかで目立っている一種のパターンを指して「ゲイっぽい」と言っています。

大学生のときの<居場所>がなくなっちゃうらしい。

おさむです。

 

ぼくが大学生だったとき。

 

いたって平凡な大学生活を過ごしていたのですが、強いて言えば、大学1年生の終わりのほうで教員から性暴力を受けて、それから学長とか副学長とか学務課とかハラスメント対策委員会の先生方とファイトしてました。

 

どんなファイトだったかというのは今回は書きませんが、当時、とにかく激しいストレスに日々晒されていて、授業中に気分が悪くなって退室したり、ゼミの途中でトイレに行くフリをしてある<居場所>へ行ってお茶したりとか、そんな過ごし方をしていました。

 

いまになって、ゼミにちゃんと出席してればよかったなとか思うけれど、当時のぼくにはあれが精一杯だった。マジ卒業させてくれてありがとう。

 

それで、そのある<居場所>っていうのが、もうすぐなくなります。予算削減のため、とかで。ホントに悲しい。

 

ぼくらの<居場所>

どんな場所だったかというと、最初は女性の教員の研究支援をするために作られた部署で、いわゆる「男女共同参画推進」を掲げたところでした。事務員の方が何人か常駐していて、あとは大学の先生が任期付きで関わっている、みたいなやつ。

 

活動していくうちに、「女性だけじゃなくて、多様なセクシュアリティジェンダーのひとびともサポートしたい」といってLGBTに関する活動もしたり、「学生たちにも一緒に活動してもらおう」といって学生も活動に参加できる仕組みができたりと、活動の幅がどんどん広がっていきました。

 

ぼくが参加したのは、そうやって活動の幅が広がり始めた頃でした。ぼくは「大学に入ったら、LGBTに関する活動をやるんだ!」と、かなり息巻いていたので、それを買われて、いろいろやらせてもらいました。シンポジウムとか、読書会とか、いろいろ。

 

 

そういう活動の場を得られたことは大変ありがたかったのですが、いま振り返ると、それよりもずっと大事だったのは、大学のなかに<居場所>を持てたことだったと思う。

 

大学の敷地内なんだけど、講義棟からは離れていて、なんとなく居心地のいい場所。

 

ジェンダーセクシュアリティについて正しい知識・センシティブな感覚を持っている学生が集っていて、安心して会話できる場所。

 

そこで働いている事務員さんたちもユニークで、学生だったぼくらを可愛がってくれて、いろんな話をしました。

 

<居場所>に生かされている

思い返せば、高校生のときにもこういう<居場所>があって、それは美術室(と絵を描くこと)でした。全校生徒の前でカミングアウトしてからいじめや差別を受けて、それでもなんとか学校へ通う生活のなかで、ぼくにとって美術室は大事な<居場所>だった。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

美術部のなかでもいろいろあって、安心安全な場所だったとは言い切れないけれど、馴染みがある場所で、友達や仲間がいて、じっくり集中して絵を描くことができる<居場所>。

 

普段生活していると、ときどき、「自分はひとりぼっちなんだ」とか「誰も助けてはくれないんだ」とか思っちゃうことがあるけれど、ぼくはずっと<居場所>——その場所の場所性や、そこに集うひとびと——に支えられて生きてきたんだなあと気づかされます。

 

<居場所>は流動的だ

大学のなかで「男女共同参画」を推進する拠点だった<居場所>で出会ったひとびととは、その後も付き合いが続いています(同じ学部の同級生とはすっかり疎遠なのにね)。<居場所>で働いていた事務員の方々とも、たまにお茶したり連絡をとったりしてる。

 

これはもう仕方ないんだと思うんだけれど、<居場所>は、けっこうすぐなくなる。

 

<居場所>を<居場所>として継続させていくのってホントに難しいことで、大学のLGBTサークルも長く続けているところは少ない。

 

悲しいけれど、これが現実なんだと思う。*1

 

<居場所>はなかなか固定されない。固定されているようでも、実は内部で常に流動している。あるひとが来なくなったら、一気に雰囲気が変わってしまったりする。<居場所>は不安定だ。すぐに移り変わってしまう。でも、<居場所>がなくなってしまったとしても、その場をそのとき共有していたひとたちとの記憶が残る。

 

さまざまな<居場所>の記憶を持ったひとたちが集い、また新しい<居場所>をつくる。そこにふとやって来て、「ここは居心地がいいなあ」と感じるひとたちがいる。そうやって継承されていくものがあるのかもしれない。そうやって社会は、日常は、できているのかもしれない。

 

ただそこに居られる場所

生産性を発揮しないと居られない場所っていうのがあって、一方で、ただそこに居るということができる場所がある。ぼくらが<居場所>だと思えるのって、後者じゃないだろうか。

 

『居るのがつらいよ』という本は、そういう場所の場所性をじっと見つめるような一冊でした。

 

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

資本主義が<居場所>を壊していく。ぼくら自身をも蝕んでいく。

 

ぼくはそれに地道に抗って、記憶を継承し、これから<居場所>をつくっていきたいなあと思いました。

*1:もしも長く継続して存在する<居場所>を持っていられるひとがいたら、ぜひそれを大事にしてほしい。継続するために尽力しているひとを労ってほしい。