おさむです。
先日、インドカレーを食べに行ったら、備え付けのテレビで「ハートネットTV」という番組が流れていました。障害者の就労がテーマの回みたいでした。
そのテーマについて、これからの展望を問うた司会者に対して、スタジオに来られていた当事者の方は「みんなもっと知識をつけてほしい」というようなことを言っていました。
一方で、おそらく当事者ではないあるタレントの方は、「それも大事だけど、知識だけ身につけるのではなくて、現場に出てたくさんの当事者に出会うことも大事。お互い傷つきあったりもして、そうやって少しずつ分かりあっていく」というようなことを言っていました。
お互いに傷つけあうぼくたち(?)
ぼくも以前、知識をつけることについてブログに書きました。
「知識がないなら発信するな」とは書いていません(ここ重要)が、そのトピックやテーマにおいて被害や抑圧を受ける「当事者」の存在が想定されるのであれば、やはり知識がない・わからないうちは軽々しく言及しないほうがよいのではないかと考えを書きました。
先の番組でいえば、当事者の方の発言に近いでしょうか。「とりあえず現場に出てみる」ということの意義も分かりますけれど、不用意に当事者を傷つけないために、まずある程度の知識を身につけることの重要性があると思う。
例えば、タレントの方の発言の中で、「お互い傷つけあったりもして」という箇所があります。これって、あたかも対等な関係の中で傷つけあっているように言っているけれど、マジョリティとマイノリティの権力関係や立場性を考えると、決して対等ではない。
マイノリティ=当事者がずっと違和感を持って、負担を背負わされて、差別されて、もう我慢できなくなって、ドーンと怒る。マジョリティはそれでようやく自分がやったこと(の一部)に気が付く。でもすぐには反省しない。「あなたにだって非はある」とかなんとか言う。お互いに非難しあう。
最後の場面だけを目撃すれば、「お互いに傷つけあ」っているように見えるけれど、実際にはマイノリティ=当事者のほうがずっとずっと割を食わされてきたわけです。
アイデンティティとシティズンシップ
大体ここまでが、これまでぼくが主張してきたことなんですけど。実際には、もっと状況は複雑で。いろんなことが言える。いろんなことが考えられる。
例えば、『Over vol.2』のインタビューで、千葉雅也は、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』の内容を引用しながら次のように言っている。
自分のことじゃなくても世界一般の正義の問題として活動が必要だっていうのはシティズンシップの論理で、それに対して当事者が自分のアイデンティティの問題として運動に関わるっていうのはアイデンティティの論理で、今はそのシティズンシップの論理っていうのが強くなってるわけですよ。これはやや業界的な話なんだけど、1990年代くらいってまだ伏見憲明さんなんかのプレゼンスが今より大きかったと思うし、もうちょっとまあ二丁目飲み屋的なノリっていうのがゲイ言説にもあった。そのあと、2000年代に大学人がやっとLGBTのことを研究したものを出してきたんだけど、その大きな方向性って反二丁目だったと思います。リーダーシップを取っていたのは、どっちかっていうと、ニチョノリに乗れない人たち。それがアイデンティティの問題よりシティズンシップの論理っていうのが強く出てきた1つの理由ですよ。それで、弱者を弱者のままでどう救済するかっていうロジックが強く出てくる。で、それに対して、やっぱり強さをと言うと、そういうのが嫌なんだよという話になってくる。(p.134)
まさにこういう対立構造をなぞってるなあって思います。
ぼくもニチョノリみたいなの苦手だし、
被害や抑圧を受ける当事者がいる問題について、よく分からないのなら発言しないほうがいいという主張も、まさにシティズンシップの論理。
一方で、微妙なところだけど、『LGBTのひろば ゲイの出会い編』に掲載いただいた原稿では、シティズンシップの論理への従属的な、マジョリティからの質問になんでも、わかりやすく答えて差し上げる「模範的なマイノリティ」像への抵抗を示したつもり*1。
それは、アイデンティティの論理とシティズンシップの論理のあいだで葛藤した結果だ、と思う。
葛藤、拮抗、緊張関係
シティズンシップの論理がすべて悪だというわけではないだろう。ぼくはこれからも、「被害や抑圧を受ける当事者がいる問題について、よく分からないのなら発言しないほうがいい」と言っていくと思う。
その一方で、アイデンティティの論理というものについてもっと考えてみたいと思う。マイノリティとしての矜恃。それをしっかり考えてみたい。
千葉雅也は、インタビューで、重要なのはアイデンティティの論理とシティズンシップの論理との拮抗、緊張関係が大事なのだと言っています*2。
現状、シティズンシップ/反シティズンシップ(≒反ポリコレ)という対立が目立ちますが(こないだの一件もこういう対立構造だったんじゃないかなあ)、それを越えて、アイデンティティの側から問題を照射していく、そこに緊張関係をつくりだしていくという動きも必要なのでしょうね。
ちょっとまだ考えがまとまりきらないのですが、今日はこの辺で。アデュー。