おさむです。
表題について、「そんなこと言ってるやつがいるのか」と大変驚きました。
ぼくもひとりのブロガーとして、憤っています。みんなもちゃんと怒りましょう。こんなこと許しちゃいけないですよ。
だって、「情報発信」と一言でいっても幅広くて、日常会話からブログやSNSへの書き込み、有名タレントや政治家の発言までいろいろです。また、「知識がある/ない」の線引きも不明瞭で、誰がどんな基準をもってしてその判断をするのかわからない。例えばいまコロナウィルスに関して正しい情報/知識を得るのってなかなか難しいわけですよね。それでも日々生活していくためには、さまざまなかたちで情報の送受信をしなくちゃいけない。
だから、「知識がないなら発信するな」を許容しちゃうってことは、もう何も言えなくなってしまうに等しい。これは大変なことです。
こんなこと誰が言ってんの?
それでね、「こんなこと言ってるやつ、誰?」と思って、調べてみました。
・・・。
なんと、ぼくでした。
マジでびっくり。そんなこといつ言った?
それでまた調べてみたら、先月の東京たらればゲイ氏とのやりとりのなかで、ぼくが主張したことだと言われているみたいでした。
例えば、東京たらればゲイ氏がメインパーソナリティのひとりを務めるPodcastの番組「前髪ゲイラジオ」のあるエピソードでは、こんな発言がありました。
[…]「知識がないなら、情報発信するべきじゃないと思います」と言われて。ぼくはそれちょっと違うと思って。何が違うと思ったかというと、知識がある/ないで発言権が決まったら、子どもとかに発言権がないということになると思うのね、極論。発言権がなくなるというのを軽んじてほしくなくて。
いやいやいや、言ってないから。そんなこと。
ほんとうの主張
ぼくの主張は、「被害や抑圧を受ける当事者の存在が想定される問題について、知識がない・よく分からないのなら発言しないほうがいいのでは」ということ。条件付きなわけ。例えば、人種的マイノリティや障害者について、よく知らないなら発言を控えたりするでしょう? そういうことを言っているんです。当たり前のことじゃない?*1
念のため、当時のぼくのツイート貼っておきますね。
非常に恐縮ですが、よくわかってないなら書くべきではないのではないでしょうか。すでにいろんな議論が行われているので(ぼくもすべては把握できていないのですが)、それを調べてみてください。例えば、ICUでミスコンが開催されることになった際の議論がいくつかまとめられているのを知っています。
— おさむ@にげにげ日記 (@nigenigeOsamu) 2020年2月15日
ぼくが「よくわかってないなら書くべきでない」と言ったのは、この問題に被害者・被抑圧者がいるからです。例えば「このクッキーの原材料はなにか」とか、おおよそそのことについて語ることで被害や抑圧を受けるひとが想定されない場合は、よく分からなくても感想を言ってみたり所感を述べたり(続く)
— おさむ@にげにげ日記 (@nigenigeOsamu) 2020年2月15日
したって構わないと思います。でも、ミスコンやルッキズムについてはそうではない。これまで必死の思いで声を上げて、議論してきたひとたちがいるわけです(きっといまもいることでしょう)。それを見ないままに、「よく分からないけど~」と感想や所感を述べるのは正しくないとぼくは思いました。
— おさむ@にげにげ日記 (@nigenigeOsamu) 2020年2月15日
もちろん、あえて「よく知らないけど、発言してみる」ことはできる。けれど、それは批判されて然るべきです。だって、マジョリティ的には大した意味もなく(「差別する意図はなかった」とか言い訳するんだろうなあ)発言したことであっても、それを受信したマイノリティの側からすれば大きなダメージになったりするわけです。トラウマが蘇ったり、精神疾患をわずらったり、命を断ったりすることだってあり得る。
だから、そのような問題について言及するんだったら、慎重になったほうがいいんじゃない? ってぼくは言ってるわけ。ただそれだけ。
これって、杉田水脈の「LGBTは生産性がない」発言や「保毛尾田保毛男」、最近だと映画「バイバイ、ヴァンプ!」の一件なんかにも関係することです。
マジョリティ/マイノリティの関係のなかで、マジョリティがなんとなくの感覚でおこなった言動やノリが、マイノリティを深く傷つけたり抑圧したりする。そんなことはなるべく避けたほうがいい、と思って、ぼくは主張しました(無条件に「知識がないなら発信するな」なんて言ってない)。
マジョリティの世界
もう少し詳しく書きます。
そもそもマイノリティってなんなのかというと、ただ少数であるという意味ではなくて、社会がその存在を想定していなかったり、制度的・構造的な差別があったりすることを意味します。例えば、会社のなかで社長という役職のひとは少数だけれど、マイノリティではありません。
で、そんな社会で暮らしていると、人々は、マイノリティの存在さえ知らなかったり、制度的・構造的な差別があることが当たり前になってしまっていたり、差別の存在自体を認知できなかったりする。それがフツウ。
だから、被害や抑圧を受ける当事者の存在が想定される問題について、何も調べずに・よく分からないまま発信するということは、目をつぶって車を運転するようなものです。*2知らないうちにボコボコひとを轢いていく。轢いてしまわないためには、しっかり目を開けなきゃいけない。
・・・なんか、あまりにも当たり前なことを書いていて、自分でも恥ずかしくなってきた。
知識がある/ないの境界線
「じゃあどこまで知識を得たら、マイノリティの問題について語っていいの?」
「知識がある/ないの境界線は誰が決めるの?」
こういう疑問はあり得るでしょう。アイロニカルに問うことも大事だけど、でもあんまりやりすぎると子どもっぽくなっちゃう。
「どこまでが『目を開けてる』と言えるの? 」
「まばたきはしちゃいけないの?」
こんな風に言ってるみたい。
結局のところ、このような問いに絶対的な答えはなくて、「みんなそれぞれ気をつけましょう」っていう、良心とか倫理観の問題にしかならないんじゃないかと思う。
おわりに
ぼくの主張がこんな風に解釈されているとは。まあでも、なんつーか、こういうのってインターネット上ではよくあることなのかも。
先方が聞く耳を持っているのかどうか期待できませんが、とりあえず訂正したいなと思って記事にしました。以上。