にげにげ日記

にげにげ日記

(元)不登校ゲイの思索

大学生のときの<居場所>がなくなっちゃうらしい。

おさむです。

 

ぼくが大学生だったとき。

 

いたって平凡な大学生活を過ごしていたのですが、強いて言えば、大学1年生の終わりのほうで教員から性暴力を受けて、それから学長とか副学長とか学務課とかハラスメント対策委員会の先生方とファイトしてました。

 

どんなファイトだったかというのは今回は書きませんが、当時、とにかく激しいストレスに日々晒されていて、授業中に気分が悪くなって退室したり、ゼミの途中でトイレに行くフリをしてある<居場所>へ行ってお茶したりとか、そんな過ごし方をしていました。

 

いまになって、ゼミにちゃんと出席してればよかったなとか思うけれど、当時のぼくにはあれが精一杯だった。マジ卒業させてくれてありがとう。

 

それで、そのある<居場所>っていうのが、もうすぐなくなります。予算削減のため、とかで。ホントに悲しい。

 

ぼくらの<居場所>

どんな場所だったかというと、最初は女性の教員の研究支援をするために作られた部署で、いわゆる「男女共同参画推進」を掲げたところでした。事務員の方が何人か常駐していて、あとは大学の先生が任期付きで関わっている、みたいなやつ。

 

活動していくうちに、「女性だけじゃなくて、多様なセクシュアリティジェンダーのひとびともサポートしたい」といってLGBTに関する活動もしたり、「学生たちにも一緒に活動してもらおう」といって学生も活動に参加できる仕組みができたりと、活動の幅がどんどん広がっていきました。

 

ぼくが参加したのは、そうやって活動の幅が広がり始めた頃でした。ぼくは「大学に入ったら、LGBTに関する活動をやるんだ!」と、かなり息巻いていたので、それを買われて、いろいろやらせてもらいました。シンポジウムとか、読書会とか、いろいろ。

 

 

そういう活動の場を得られたことは大変ありがたかったのですが、いま振り返ると、それよりもずっと大事だったのは、大学のなかに<居場所>を持てたことだったと思う。

 

大学の敷地内なんだけど、講義棟からは離れていて、なんとなく居心地のいい場所。

 

ジェンダーセクシュアリティについて正しい知識・センシティブな感覚を持っている学生が集っていて、安心して会話できる場所。

 

そこで働いている事務員さんたちもユニークで、学生だったぼくらを可愛がってくれて、いろんな話をしました。

 

<居場所>に生かされている

思い返せば、高校生のときにもこういう<居場所>があって、それは美術室(と絵を描くこと)でした。全校生徒の前でカミングアウトしてからいじめや差別を受けて、それでもなんとか学校へ通う生活のなかで、ぼくにとって美術室は大事な<居場所>だった。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

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美術部のなかでもいろいろあって、安心安全な場所だったとは言い切れないけれど、馴染みがある場所で、友達や仲間がいて、じっくり集中して絵を描くことができる<居場所>。

 

普段生活していると、ときどき、「自分はひとりぼっちなんだ」とか「誰も助けてはくれないんだ」とか思っちゃうことがあるけれど、ぼくはずっと<居場所>——その場所の場所性や、そこに集うひとびと——に支えられて生きてきたんだなあと気づかされます。

 

<居場所>は流動的だ

大学のなかで「男女共同参画」を推進する拠点だった<居場所>で出会ったひとびととは、その後も付き合いが続いています(同じ学部の同級生とはすっかり疎遠なのにね)。<居場所>で働いていた事務員の方々とも、たまにお茶したり連絡をとったりしてる。

 

これはもう仕方ないんだと思うんだけれど、<居場所>は、けっこうすぐなくなる。

 

<居場所>を<居場所>として継続させていくのってホントに難しいことで、大学のLGBTサークルも長く続けているところは少ない。

 

悲しいけれど、これが現実なんだと思う。*1

 

<居場所>はなかなか固定されない。固定されているようでも、実は内部で常に流動している。あるひとが来なくなったら、一気に雰囲気が変わってしまったりする。<居場所>は不安定だ。すぐに移り変わってしまう。でも、<居場所>がなくなってしまったとしても、その場をそのとき共有していたひとたちとの記憶が残る。

 

さまざまな<居場所>の記憶を持ったひとたちが集い、また新しい<居場所>をつくる。そこにふとやって来て、「ここは居心地がいいなあ」と感じるひとたちがいる。そうやって継承されていくものがあるのかもしれない。そうやって社会は、日常は、できているのかもしれない。

 

ただそこに居られる場所

生産性を発揮しないと居られない場所っていうのがあって、一方で、ただそこに居るということができる場所がある。ぼくらが<居場所>だと思えるのって、後者じゃないだろうか。

 

『居るのがつらいよ』という本は、そういう場所の場所性をじっと見つめるような一冊でした。

 

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

資本主義が<居場所>を壊していく。ぼくら自身をも蝕んでいく。

 

ぼくはそれに地道に抗って、記憶を継承し、これから<居場所>をつくっていきたいなあと思いました。

*1:もしも長く継続して存在する<居場所>を持っていられるひとがいたら、ぜひそれを大事にしてほしい。継続するために尽力しているひとを労ってほしい。