おさむです。
先々月くらいから、同性の恋人と同棲のための部屋探しをしているのですが、駅前とかにある不動産屋を回るたびに、こんなやりとりが生じます。
不動産屋のひと「お友達ですか?」
ぼくたち「いえ、カップルです」
不動産屋のひと「え?」
ぼくたち「恋人なんです」
不動産屋のひと「あぁ(目を瞑る)」
「あぁ」としか言いようがないよな〜なんて思って、これはもう仕方がないと諦めていました。業務上、どうしても聞かなきゃいけないよね、と。
でも、LGBTのための不動産屋があることを知って、いま相談している最中なのですが、このやりとりがないだけで意外とかなりストレスフリーなんだなということに気づかされます。
思い返せば、これまで内見へ行くにしても、不動産屋のひとの目線を気にして恋人とのコミュニケーションがぎこちなくなったりしていました。あれもストレスだったんだなあ。
伝えるとか伝えなくていいとか
ほかの国がどうだかわからないけれど、日本社会においては、「言葉にせずとも相手に分かってもらえる」ということに価値が置かれている気がする。阿吽の呼吸、以心伝心。わざわざ言葉にしてしまうのは野暮というか、なんかそんな感じ。
それに対して、「ちゃんと言葉で伝えよう」と主張するひとたちがいる。例えば、性交渉において同意を得ることの大事さを説いたりとか。
ほかにも、例えば社会学者の岸政彦は、雨宮まみとの雑談本のなかでこんな風に言っている。
言葉で言わないと通じないというのはすごく大事なことなんだけど、とくに親密な領域ではお互いに言わなくなるでしょう。たとえば夫婦、家族関係や恋愛関係だと、言わんでもわかってくれる、という変な感覚というか信仰がある。
[…]
男性だととくに「俺のことわかってくれんだよ、あいつは」みたいになっちゃうんですよ。で、知らないうちに関係が壊れていく。
(雨宮まみ・岸政彦『愛と欲望の雑談』2016年、ミシマ社、p.9)
ぼくもパートナーシップや友達関係のなかで、できるだけ言葉にして伝え合うということを大事にしたいと考えています。それができているかどうかは自信ないけれど、できるだけ意識的にコミュニケーションしているつもり。
「ちゃんと言葉にして伝えよう」の非対称性
で、それで、ここからが問題なんですけど、「ちゃんと言葉にして伝えよう」ということが重要なのは大前提として、他方で、言語化して伝えることの労力ということを考えると、マジョリティ/マイノリティ間で非対称性があるんですよね、現実として。
マジョリティ側が透明化されて、自分について語る言葉を持たない(持つ必要がない)のに対して、マイノリティ側は有徴化されて、ゲイだクィアだなんだと名指されて、自分が何であるのか説明を求められる。ぜんぜん平等じゃない。
ここで記事の冒頭に戻るんですが、当事者同士だとこの不平等がない=言葉にせずとも分かり合える部分があるから、すごい楽なんですよね。「ちゃんと言葉にして伝え」なくても大丈夫、という安心感。
もちろん当事者同士といったって、まったく同じひとはいないわけで、生活環境や経済状況や障害の有無やなんやで差や違いはできてくるから、なんらかの説明が必要な場面はできてくるわけですが。
「ちゃんと言葉にして伝えよう」には賛同したい一方で、説明を求められ続けるマイノリティの立場として、言葉にせずとも分かり合えるということの心地よさをどうしても手放せずにいます。ジレンマ。
はあー、内見に行ったお部屋、審査通るといいな。