おさむです。
先日の記事は大きな反響をいただき、ありがとうございました。いろいろなひとに読んでいただいたみたいです。
コメントやDMもいただき、ありがとうございました。
ぼくとしては、「書きたいことはすべてこの記事に書ききった」という感じ。これ以上何か付け足して言う必要はないように考えています。
「今回の一件から学べること」みたいな記事を書こうとも思いません。特殊な事例であって、一般化できるものではないと思うからです。
ただ、この間、次のようなことはぼんやりと抽象化しながら考えて、あらためて確認しました。
- 情報発信するひとが持つべき責任感について
- 対話とはなにか
- ぼくにとってブログを書くということはどういうことか
順を追ってまとめてみます。
情報発信するひとが持つべき責任感について
情報発信するひとは、発信する情報について責任を持つ。
それが当然だと思っていたのですが、必ずしもすべてのひとがそう思っているわけではないみたい(とはいえ、多数のひとはそう思っているんじゃないかと信じている)。
間違った情報を流してしまわないようにするとか、誰かの足を踏まないように気をつけるとか、そういったことって、情報を発信する側に立つのであれば持つべき責任感だと思うんですよね。
何回繰り返したことかと思いますが、ぼくは「知識がないなら情報発信するな」なんて言っていませんよ(「被害者の存在が想定される問題について、知らない・分からないのにイメージで語るべきではないのではないか」と言っただけ)。
情報を発信する立場に立てるというのは、パワーがあることです。発信した情報によって誰かを傷つけたり、差別を再生産したりできる。そのことについて自覚的であるならば、自分の無知さに自省的になって、発信する情報の内容を精査するべきだと思うのです。
「書くな」とは言いません。ぼくになんの強制力もありませんし。ひとは自由に発言したり書いたりすることができる。それは当然のことです。ただ、情報発信するんだったら、上記のような矜持・倫理観を持ってほしいと思っていますし、ぼくもそうすべきだと改めて思いました。
対話するための条件
まあなんつーか、流行ってますよね、対話。
でも、「対話しましょう」って言いさえすれば成立するものではないわけです。対話って。ひとは全然対等じゃない。
特にこれは、マジョリティ/マイノリティ間のやりとりで顕在化する問題ではないかと思います。自分で調べようともしないマジョリティ。「自分で調べる気はないけれど、納得できるように説明してくれるんだったら、聞くよ」みたいな。「対話しようぜ」みたいな。こういうひとたまにいます。
でも、こちらの記事にも書きましたけれど、マイノリティのそのひとがそのこと(マジョリティが説明を求めてくるものごと)について詳しいのは、運が良いからでも生まれつき頭がいいからでもなくて、「生きていくうちに何度も差別を経験しているから」(イ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ――フェミニストは黙らない』p.31)。
それなのに、マイノリティのそのひとに差別の経験を語らせたり、何が問題なのかを分かりやすく説明させたりする。その暴力性に気づく必要があります。
だから、調べようと思えばいくらでも調べられるんだし、まずは自分で調べるべきです(「どんな本・ウェブサイトを読めばいいかな」って尋ねるくらいならやってもいいんじゃないかと思いますが)。そのうえで対話に臨む。これが、対話するための条件のひとつではないでしょうか。
当然、知識や前提が共有できたからって、対話の準備が完了しているとは言い切れません。対話のセッティングって、全然簡単じゃないです。
傾聴や対話は、意見が違うとしても前提や知識をある程度共有し、お互いに最低限の関心と敬意がないと無意味だと思う。
— 渡辺ペコ1122いいふうふ6巻📕☝☝✌✌ (@pekowatanabe) 2020年2月19日
それをすっ飛ばして聞く姿勢だとか対話だとか耳障りのいい何かで権力勾配や抑圧された側の今までの取り組みの無効化に加担するのは完全に有害だと思う。
そういうのもういらない。
ほんとこれ。対話って軽々しく使っちゃダメですね。
ぼくにとってブログを書くということはどういうことか
以上のようなことを、しっかり噛み締めながらブログを書いていきたいと思っています。これまでも考えながら書いていたけれど、今回の一件でさらに強く意識するようになりました。
「そんな風に根詰めて考えていたら、ブログなんて書けないよ」というひともいるかもしれません。ぼくもときどきそう思います。思って、ちょっとラフに文章を書いてみたりします。
そうやってバランスを取ろうとしながら、ぼくに書けることはなんだろうかと考える。そうやっていくしかないかなーって感じています。まだ試行錯誤の途中です。一生、試行錯誤していたいです。