にげにげ日記

にげにげ日記

(元)不登校ゲイの思索

うつ病が、ぼくの人生や暮らしをガラリと変えてしまった件について

自分がいつからうつ病なのか、正確なところは分からない。不登校だった小中学生の頃や、全校生徒の前でカミングアウトをした高校生の頃、それからハラスメントを受けた大学生の頃にもそのような症状はあったような気がする。けれど、医師からの診断を受けたという点で言えば、約1年半前からだ。それから少しずつ生活が変わっていった。変えざるをえなかった。

 

何が、どのように変わったのか。それを言葉にして、誰かに納得してもらえるよう説明することはずっと避けてきた。ただただ「きつい、しんどい」という感覚でいっぱいいっぱいで、自分を客観視して説明する余裕なんてなかったし、そうやって説明したところで誰かに納得してもらえるとは思えなかった。

 

けれど、同じような症状(性質?)を抱えた友人らと語り合うなかで、少しずつ言語化できるようになってきている気がしている。なので今回は、うつ病によって生活が一変した様をなんとか言語化してみたい。

 

 

変化1:不安や緊張がひたすら大きい

何か新しいことを始めるにあたって、緊張したり不安などの感情を抱いたりするのはおかしいことじゃないと思う。ぼくの場合、それらの感覚がひたすら大きくなって、精神の不調を来たすことがホントに多い。バイトを始めるときや卒論の発表のときなど、「ああなったらどうしよう」「きっとこうなってしまうはずだ」と想像が無限に展開していって、生活がままならなくなる。場合によっては、どうしようもなくなってそこから撤退してしまう。

 

病院では抗不安薬を処方されている。これを飲むとだいぶ落ち着くのだが、それでもどうしても不安を拭えないときがある。そういうときは、やっぱり逃げる。持ち物も責任もぜんぶ置きざりにして、一目散に逃げるのだ。これは一種の処世術になっている。

 

変化2:めちゃめちゃ疲れやすい

1週間のうち、ずっと元気でいられるのは奇跡みたいなもんで、たいてい1、2日はぐったりしてしまう。ひどいときは週の半分は寝込んでいる。いや、もっと寝込んでいるときだってある。なぜだか分からないけど、とにかく疲れやすい身体になってしまった。ちょっと出かけるだけでもドッと疲れるので、できるだけ家にいたい。でも家にずっといるのも健康に悪い。

 

どうしてこんなに疲れやすいのか。寝不足が天敵であるのはもちろんのこと、<変化1>で説明したような不安や緊張といった感情による気疲れや、それがもたらす不安定な生活が疲労として溜まっているんじゃないかと思う。

 

変化3:布団だけがともだち

疲れやすいので、布団の中にいることがとても多くなった。布団は温かいし、柔らかいし、すべてを包み込んでくれる感じがするので大好き。ずっとここにいたい。実際、ほぼ一日中布団の中にいることもある。

 

うつ病, 孤独, 男, 気分, 人, 病気, シルエット, 背景, ヘルプ, 灰色の背景, グレーの助

 

変化4:本や映画がなんか重い

調子がいいときは布団の中で本を読んだり映画やドラマを見たりすることもあるが、基本的にはYoutubeTwitterをだらだら見ている。本を読んだり映画やドラマを見たりする体力があったら、布団の中にはいないのだ。

 

また、大学生の頃には読めていた難しい本がどうも読めなくなってきた。「難しい」と感じるハードルもどんどん下がってきている気がする。最近はエッセイやコラムのようなものばかり読んでいる気がする。おもしろいエッセイやコラムと出会えたのは良かったけれど、でもやっぱりもっといろいろな本を読みたい。読めるようになりたい。

 

変化5:ひとと比べるのがアホらしい

ここまで述べてきたような変化は、当初は受け入れられなかった。一時的な症状であって、しばらくすれば治るだろうし、その遅れも努力によって取り戻せるはずだと思っていた。でも、症状は改善こそすれど完治はしないみたいだし、体力がないので過度な努力もできない。

 

その現実を受け入れると同時に、ひとと比べる(そして自己嫌悪してしまう)のを諦めた。それは自分に期待するのを諦めるのと同義であって、諸刃の剣であることは承知の上だが、こうするしかなかった、と思っている。フツウができないんだから、ひとと比べてもどうしようもないのだ。

 

おわりに

ひとは子どもから成長して大人になり、やがて老いていく。ある時期までは、子どもの頃と比べて「できること」がどんどん増えていくのだろうが、やがて今度は若い頃と比べて「できないこと」が増えていくのだろう。

 

加齢や病気、ケガによって「できないこと」が増えるのは、まだ認識しやすいのかもしれないが、うつ病の場合は気分の波があるので、できるときがあったりできないときがあったり、でも総体的に見ると「できない」みたいな感じなので、いまいち認識しづらかったりする。葛藤や拒絶を繰り返しながらなんとか変化を受け入れてきた。そうして少しずつ楽になってきた一方で、現状を振り返ってみると、諦念が過ぎるような気もしている。

 

もうちょっと自分や、自分の人生や暮らしについて期待してみてもいいのかもしれない。とりあえず今後も治療を進めつつ、より良い暮らしを求めていきたい。

同性婚訴訟の判決に大いに盛り上がる一方で、懸念もいくつかある。

先日は、全国各地でやっている同性婚訴訟のうち、札幌地裁での違憲判決が出て、Twitterのタイムラインが大いに盛り上がっていた。ぼくもめちゃくちゃ嬉しくて、職場で泣きそうになるのを我慢して仕事していた。コロナ禍じゃなかったら、仕事を放り出して、街へ繰り出してパーティでもしたかった。

 

news.yahoo.co.jp

 

(訴訟の内容や判決の意義についてはこちらの記事が分かりやすかった)

 

司法がちゃんと機能した

何がそんなに嬉しかったかって、突き詰めて考えるとやっぱり「司法がちゃんと機能した」ってことかなあ。例えば映画「チョコレートドーナツ」では、司法の場で同性愛者に対する差別的な言論が繰り広げられて人権が蹂躙されるというシーンがあって、見ているだけでものすごく苦しかった。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

あるいは、全国で行われているフラワーデモの発端になったのは、2019年に性暴力に関する事件の無罪判決が相次いだことだった。

 

www.flowerdemo.org

 

近年だと、一橋大学アウティング事件についての判決も読むに堪えなかった。

 

news.yahoo.co.jp

 

こういう経験や歴史の積み重ねがあったから、正直、札幌地裁での判決にはあまり関心を持てていなかった。最高裁までいかないとダメなんだろうな、あと何年待てばいいんだろうな、と考えていた。だから、まさかの展開に驚いたし、画期的な判決に嬉しかった。原告に立ったひとたちや活動を支援してきたひとたちには感謝したい。

 

その一方で、懸念していること

これから原告は控訴して、最高裁までいって争って立法を促すのだろう、たぶん。また、札幌以外の地域でも判決が出てくるだろう。そして、このような司法判断に対するバックラッシュも出てくるだろう。バックラッシュにはしっかり対処していかなくてはならないと思っている。

 

それと同時に、開催まで残り約1ヶ月に迫った「東京レインボープライド」をはじめ、全国のレインボープライドで——というか、LGBTQコミュニティ全体で——カップリング主義が強まることを懸念している*1同性婚訴訟がここまで盛り上がったらそうならざるを得ないのかなと思うが、「LGBTQ運動のアジェンダ同性婚だけではない」ということは何度も繰り返し書いておきたい。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

例えば、SNSを中心に激化しているトランスジェンダー差別に対抗言説をはっきりと出してほしい。今年の東京レインボープライドのテーマは「声をあげる。世界を変える。Our Voices, Our Rights.」なのだから、それくらいのことはやってもいいんじゃないかと思っている。

 

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東京レインボープライド2021の公式ホームページより

*1:渋谷区や世田谷区で同性パートナーシップ制度ができた2015年、2016年あたりのレインボープライドはLOVEの押し売りがすごかった。アレの再来が懸念される。

『「ゲイコミュニティ」の社会学』感想③——「ついていけなさ」の正体とは?

森山至貴『「ゲイコミュニティ」の社会学』を読んでちょっとずつ感想をブログに書いていくシリーズ第3回。

 

前回はこちら。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

今回もかなりざっくりと要約・感想を述べるに留まるので、ちゃんと議論を追いたい方は本書をぜひ読んでください。では、始めます。

 

カミングアウトの歴史的な変容

前回、インターネットの隆盛によって、ゲイ男性の2種類のつながり「特権的な他者とのつながり」と「総体的なつながり」が機能分化していったと述べた。そこにゲイコミュニティの「ついていけなさ」が発生するきっかけがある、と。

 

本書の第2部「つながりの隘路」では、カミングアウトという行為の持つ意味の歴史的な変容についてと、ライフスタイルという「総体的なつながり」を取り上げてきたゲイ雑誌『Badi』についての分析が行われている。

 

議論がかなり複雑なので端折ってしまうと、現代において、カミングアウトをするのは、おもにノンケ(だと思われる相手)に対して行われるものであって、コミュニティへの参入や「相手探し」と強い連関にない(以前は強い連関があった)

 

「カミングアウトをしたらその相手と付き合える・セックスできるかもしれない、だからカミングアウトすることにはメリットがある」という動機づけが強く禁欲されていることは、それ自体カミングアウトが特権的な他者とのつながりのためにはまったく機能していないことを意味している(p.142)

 

禁欲的カミングアウト

この「禁欲」の背景には、ホモセクシュアルパニック(下記の記事を参照)に対する抵抗や、ゲイ男性の社会運動の戦略としてエスニック集団をモデルにしたということがあると書いてある。要するに、カミングアウトは「わたしは同性が好きですよ」という表明であって、「あなたを欲望していますよ」という表明ではあってはならない、という風に禁欲されている。

 

www.huffingtonpost.jp

 

よって、カミングアウトは「特権的な他者とのつながり」を得るための経路としては役不足になっている。また、『Badi』の分析を参照すると、ライフスタイルという「総体的なつながり」の共有されづらさも指摘することができる。以上のことを踏まえると、次のようなことがいえる。

 

現在のゲイ男性は集合性、つながりに到達できない位置に(可能的にではなく)現に立たされているのである。逆にいえば、個々人の「世渡り」の力や「コミュニケーション能力」に依拠してつながりが存続するという「ハイパーメリトクラシー」的状況がゲイ男性の集合性において発現していると考えられる(p.168)

 

「ついていけなさ」の正体

ハッテン場やゲイバー、ゲイ雑誌などがインターネットによって代替されるようになり、個々人が自由に「特権的な他者とのつながり」「総体的なつながり」のどちらか一方、または両方にアクセスできるようになった。これを裏返せば、能力やリテラシーがないとこれらのつながりにアクセスできない/し続けられないというネオリベ的な状況があるといえる。

 

また、例えばゲイサークルは「総体的なつながり」が志向されており、「特権的な他者とのつながり」を求めづらい環境だったりする(もちろんなんだかんだいってそういうつながりを得ているひとはいるけれど、あくまで建前として)。もしもそこで「特権的な他者とのつながり」を志向すると、サークルクラッシャー的な結末が見えてしまう。つまり「総体的なつながり」が得られなくなる。

 

何が言いたいかというと、これらの2種類のつながりはしっかりと機能分化されてしまって、どちらかを得ようとすると、もう一方が抑圧的に作用してしまうということだ。ここにゲイコミュニティの「ついていけなさ」があるという。

 

それでもゲイコミュニティは存在する?

理解できてるのかどうか不安だけれど、とりあえず話をまとめよう。現代において、ゲイ男性は「特権的な他者とのつながり」にも「総体的なつながり」にもアクセスしづらい状況にある。しかし、「ついていけなさ」が発生するということは、それでも個々のゲイ男性が集合性の側に誘引されていることでもある、と筆者はいう。

 

逆説的ではあるが、「ついていけなさ」の存在こそ、むしろゲイ男性の集合性の存在を証明している。(p.175)

 

続く第3部「つながりの技法」では、このように「ついていけなさ」を発生させながらも成立しているゲイ男性の集合性を描き出すために、「こっち(の世界)」「タチ/ネコ」という呼称を取り上げるのだが、 いまいち納得できなかったので思い切って割愛してしまう(ごめんなさい)

 

「こっち(の世界)」も「タチ/ネコ」もあんまり普段使わないんだよなあ。そういう意味でもぼくは「総体的なつながり」から疎外されてしまっているのかもしれない。

 

読んでみた感想

ノンケのひとたちは「総体的なつながり」に(無自覚なままに)参与していながらも「特権的な他者とのつながり」に対して開かれている。それに対して、ゲイ男性はそれらのつながりにアクセスするには障壁があり、またそれらのつながりが分化されてしまっているので、参与しづらい状況にあるのに加えて、どちらか一方に参与するともう一方が抑圧的に働く。だからそこに「ついていけなさ」が発生する、という風な理解でいいのだろうか。

 

だったら、前回の感想にも書いた通り、TwitterInstagramなどのSNSが「総体的なつながり」に参与しながらも「特権的な他者とのつながり」に対して開かれているような状況をつくりあげているとはいえないだろうか? 2011年に博士号を授与された論文を書籍化しているということだから、SNSの状況も加味されているはずだけれど、どうなんだろう。気になる。

 

あとは、ぼくが感じているゲイコミュニティの「ついていけなさ」は、ゲイコミュニティ特有のそれというよりも、集合性=つながり一般に対する「ついていけなさ」なのかもしれないと思った。この点についてはまた改めて振り返る機会が持てたらいいな。

 

おわりに

かなり議論を端折ってしまったし、ぼくにもまだ理解できていない部分があります。「圏」のゼマンティクについての議論とか、とても大事なんだけれどうまく要約できそうになかったので、思い切って端折ってしまいました。議論の全貌を知りたい方は、ぜひ本書を手にとってみることをオススメします。難しいけれど、おもしろいです。

 

ゲイコミュニティの「ついていけなさ」は、今後も折に触れて取り上げていきたいと思っています。

 

「ゲイコミュニティ」の社会学

「何でも社会のせいにするってひどすぎる」にマジレスします。

つい先日、こちらの記事に次のようなコメントをいただいた。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

地縁や血縁が煩わしくて出ていくのだから、戻る場所が無いのは当然では? 何でも社会のせいにするってひどすぎると思いますよ

 

久々のコメントで湧いたのだが、よくよく読んでみるとおかしな内容だと思った。

 

ファッキュー、地縁・血縁

まず、コメントの前半が記事の内容を履き違えている。地縁や血縁が煩わしいから出ていったのではない。その前提として、地縁や血縁のコミュニティが異性愛中心主義やホモフォビア・トランスフォビアなどを伴っていたという状況があったことを見落としている。言ってしまえば、ぼくはそれらのコミュニティからパージされた。

 

強制的にそこから追い出されたという事実はないけれど、居心地を悪くして居場所を奪ってしまうという意味では、パージされたと言ってもいいだろう。

 

あと、戻る場所がほしいんじゃなくて、新しいコミュニティやネットワークをつくりたいっていう記事だからね……。ちゃんと記事を読んでからコメントしてください。

 

自己責任論へのアンチテーゼ

それから、コメントの後半「何でも社会のせいにするってひどすぎると思いますよ」。これがとても興味深いと思うのは、この文章を裏返すと「何でも自分のせい(=自己責任)にするのは良いことだ」となるように読めるからだ。いわゆる自己責任論だが、ここまで露骨に言われるといっそすがすがしい。

 

また、このコメントから言えることは、先の記事が自己責任論に対するアンチテーゼとして機能しているということだ。だからこそ自己責任論者からコメントをいただくことができたのだろう。

 

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社会をつくっていく

ぼくは、自己責任論には与したくないと思っている。もちろん責任感を持つことは大事だが、それよりも大事なのは、社会のせいにしていくことだと思っている。なぜなら、社会は所与のものではないから。社会は、ぼくらがつくっていくものだ。だからこそ、社会のせいにして、社会問題にして、少しずつ解決していく必要がある。何でも個人のせいにしてしまう自己責任論は、その経路を閉ざしてしまうという意味でも問題だ。

 

自己責任論者からすると、何でも社会のせいにして、自分のせいにしないぼくは「ひどすぎる」やつだと映るのだろう。それでいい。ぼくは「ひどすぎる」人間なので、これからもどんどん社会のせいにしていくつもり。

『「ゲイコミュニティ」の社会学』感想②——男性同性愛者の誕生とつながりの変容

森山至貴『「ゲイコミュニティ」の社会学』を読んでちょっとずつ感想をブログに書いていくシリーズ第2回。

 

前回はこちら。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

今回から、いよいよ本編に入っていく。第1部は「つながりの編成」。男性同性愛者がいつ誕生したのかを振り返り、歴史的に見て「つながり」がどのように変容したかを確認するような内容になっている。予告していた通り、かなりざっくりした感想になっているのでご容赦ください。

 

ゲイ男性のつながりとは

まず本書では、ゲイ男性のつながりを2つに分類する。1つ目は、恋愛やパートナーシップ、セックスフレンドなど、セクシュアリティにもとづく2者(以上)の排他的な関係と定義される「特権的な他者とのつながり」。もう1つは、そのような排他性を伴わないゲイ男性全体のゆるいつながりというか、ぼくらが「ゲイコミュニティ」というときに想像するゆるい紐帯のようなものを指す「総体的なつながり」。

 

  1. 特権的な他者とのつながり
  2. 総体的なつながり

 

この2種類のつながりの関係性が、過去から現在に至るまでにどのように変容してきたのかを見ていくことによって、ゲイコミュニティの「ついていけなさ」が発生する契機が分かるという。

 

男性同性愛者の誕生

そのために、まずは歴史を紐解いて、男性同性愛者がいつ誕生したのかについて論じられている。いわく、前近代においても「男色」などといって、男性間の「性的関係を含めた肉体的精神的に緊密な関係」というものは存在したが、それは近代以降の性的アイデンティティとしての「ゲイ・バイセクシュアル男性」とは質的に異なる。そのことは、明治期の鶏姦罪の制定によって、”男性間の性行為”が犯罪化された(=行為者のアイデンティティは問われなかった)ことからも分かる。

 

その後、1920年代以降、同性愛が病理化されると、性的アイデンティティとしての「ゲイ・バイセクシュアル男性」というものが誕生し、その病理性は否定的な評価を受けるようになる。このようにして誕生した、性的アイデンティティを内面に埋め込まれた「悩める同性愛者」は、「悩み」というマジックワードによって、「特権的な他者とのつながり」と「総体的なつながり」をまとめあげ、不分明のまま(=混線して)、全体として「つながり」ができあがっていく

 

なかなか難しいけれど、たぶん、次のようなことをいっているんだと思う。セックスや恋愛の相手を探すことと、性的アイデンティティにまつわるさまざまな悩みを共有すること、それぞれの結果として、ゲイ男性全体の「つながり」ができあがっていた。そこに両者の分類は存在しなかった

 

「つながり」の変容——ハッテン場、ゲイバー、ゲイ雑誌

例えば、大正時代から戦後にかけて、(少なくとも東京では)公園や映画館が今日でいうハッテン場として連続して機能し続けていたらしい。そこでは、特定の他者との性的接触だけでなく、「悩み」の共有といった要素も含む総体的なつながりが混在していた。

 

しかし、そのように屋外施設をハッテン場として「流用」する流れは、2000年2月に新木場公園で起きた殺害事件を潮目として、現在の一般的な形式=使用料を払って入場するタイプの屋内ハッテン場が覇権を握るようになっていく。薄暗くてお互いの顔もよく見えない、大音量のBGMによって会話を遮られてしまうような空間では、「特定の他者とのつながり」は得られても「総体的なつながり」は得られないだろう。

 

このようにして、ハッテン場が「特定の他者とのつながり」の装置として先鋭化していく一方で、ゲイバーやゲイ雑誌などは「特定の他者とのつながり」とは無関係な側面(例えばゲイカルチャー)を重視した「総体的なつながり」として先鋭化していった。以前は混線していた2種類のつながりが分化していったのだ。その背景にあるのは、インターネットの隆盛だった。

 

20世紀史上、ゲイにとってもっとも革命的なできごとだったのは、ストーン・ウォール・イン事件でも、マルディグラのパレードでもなく、なんといっても「インターネットの誕生」(角屋学 2003「ネットライフ」伏見憲明編『同性愛入門【ゲイ編】ポット出版:65)

 

インターネットとゲイ男性のつながり

インターネットの出現によって、ハッテン場はゲイサイトの「即ヤリ掲示板」へ、ゲイバーにおける社交はSNSでの相互行為へ、ゲイ雑誌の情報はインターネット上のさまざまな情報サイトへと、その機能的な強みを譲り渡していった。だからといって、ハッテン場やゲイバー、ゲイ雑誌の存在意義がなくなったわけではないだろうが、それぞれの機能の代替として、インターネットは活用されるようになったとはいえるだろう。

 

そうして、つながりの目的と手段の関係性は、より純化されたものになっていった。例えば、ゲイバーで、恋人を求めるゲイ男性と会話を楽しみたいゲイ男性とが出会ってしまうことはありうるが、インターネット上では機能分化しているので、そのようなことは起こりづらい。

 

ハッテン場やゲイバー、ゲイ雑誌に比べて、つながり方の混線の可能性が著しく低いのが、インターネットというメディアの特性なのである(p.48)

 

インターネットの隆盛によって、ゲイ男性は、特権的な他者とのつながりと、総体的なつながりとを、明確に分かれた2種類のつながりとして生きざるをえない状況におかれるようになった。ここにゲイコミュニティの「ついていけなさ」発生の契機があるらしい。

 

読んでみた感想

うーん、難しくてほんの1部しかブログに書けなかった。詳しく知りたい方は、ぜひ本書を手にとってみてください。

 

第1部を読んでみて、「特権的な他者とのつながり」「総体的なつながり」という分類については納得したものの、インターネットによって機能分化が起こったということについては、ちょっと疑問が残った。TwitterInstagramのユーザでは、その両方のつながりを満たしているひともいるような気がする。

 

いろいろと思うところはあるけれど、とりあえずもうちょっと読み進めてみたい。読み進めているうちに、「ああ、そういうことだったのか」と納得できるかもしれないし。ということで、続きます。

 

「ゲイコミュニティ」の社会学