にげにげ日記

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(元)不登校ゲイの思索

『「ゲイコミュニティ」の社会学』感想③——「ついていけなさ」の正体とは?

森山至貴『「ゲイコミュニティ」の社会学』を読んでちょっとずつ感想をブログに書いていくシリーズ第3回。

 

前回はこちら。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

今回もかなりざっくりと要約・感想を述べるに留まるので、ちゃんと議論を追いたい方は本書をぜひ読んでください。では、始めます。

 

カミングアウトの歴史的な変容

前回、インターネットの隆盛によって、ゲイ男性の2種類のつながり「特権的な他者とのつながり」と「総体的なつながり」が機能分化していったと述べた。そこにゲイコミュニティの「ついていけなさ」が発生するきっかけがある、と。

 

本書の第2部「つながりの隘路」では、カミングアウトという行為の持つ意味の歴史的な変容についてと、ライフスタイルという「総体的なつながり」を取り上げてきたゲイ雑誌『Badi』についての分析が行われている。

 

議論がかなり複雑なので端折ってしまうと、現代において、カミングアウトをするのは、おもにノンケ(だと思われる相手)に対して行われるものであって、コミュニティへの参入や「相手探し」と強い連関にない(以前は強い連関があった)

 

「カミングアウトをしたらその相手と付き合える・セックスできるかもしれない、だからカミングアウトすることにはメリットがある」という動機づけが強く禁欲されていることは、それ自体カミングアウトが特権的な他者とのつながりのためにはまったく機能していないことを意味している(p.142)

 

禁欲的カミングアウト

この「禁欲」の背景には、ホモセクシュアルパニック(下記の記事を参照)に対する抵抗や、ゲイ男性の社会運動の戦略としてエスニック集団をモデルにしたということがあると書いてある。要するに、カミングアウトは「わたしは同性が好きですよ」という表明であって、「あなたを欲望していますよ」という表明ではあってはならない、という風に禁欲されている。

 

www.huffingtonpost.jp

 

よって、カミングアウトは「特権的な他者とのつながり」を得るための経路としては役不足になっている。また、『Badi』の分析を参照すると、ライフスタイルという「総体的なつながり」の共有されづらさも指摘することができる。以上のことを踏まえると、次のようなことがいえる。

 

現在のゲイ男性は集合性、つながりに到達できない位置に(可能的にではなく)現に立たされているのである。逆にいえば、個々人の「世渡り」の力や「コミュニケーション能力」に依拠してつながりが存続するという「ハイパーメリトクラシー」的状況がゲイ男性の集合性において発現していると考えられる(p.168)

 

「ついていけなさ」の正体

ハッテン場やゲイバー、ゲイ雑誌などがインターネットによって代替されるようになり、個々人が自由に「特権的な他者とのつながり」「総体的なつながり」のどちらか一方、または両方にアクセスできるようになった。これを裏返せば、能力やリテラシーがないとこれらのつながりにアクセスできない/し続けられないというネオリベ的な状況があるといえる。

 

また、例えばゲイサークルは「総体的なつながり」が志向されており、「特権的な他者とのつながり」を求めづらい環境だったりする(もちろんなんだかんだいってそういうつながりを得ているひとはいるけれど、あくまで建前として)。もしもそこで「特権的な他者とのつながり」を志向すると、サークルクラッシャー的な結末が見えてしまう。つまり「総体的なつながり」が得られなくなる。

 

何が言いたいかというと、これらの2種類のつながりはしっかりと機能分化されてしまって、どちらかを得ようとすると、もう一方が抑圧的に作用してしまうということだ。ここにゲイコミュニティの「ついていけなさ」があるという。

 

それでもゲイコミュニティは存在する?

理解できてるのかどうか不安だけれど、とりあえず話をまとめよう。現代において、ゲイ男性は「特権的な他者とのつながり」にも「総体的なつながり」にもアクセスしづらい状況にある。しかし、「ついていけなさ」が発生するということは、それでも個々のゲイ男性が集合性の側に誘引されていることでもある、と筆者はいう。

 

逆説的ではあるが、「ついていけなさ」の存在こそ、むしろゲイ男性の集合性の存在を証明している。(p.175)

 

続く第3部「つながりの技法」では、このように「ついていけなさ」を発生させながらも成立しているゲイ男性の集合性を描き出すために、「こっち(の世界)」「タチ/ネコ」という呼称を取り上げるのだが、 いまいち納得できなかったので思い切って割愛してしまう(ごめんなさい)

 

「こっち(の世界)」も「タチ/ネコ」もあんまり普段使わないんだよなあ。そういう意味でもぼくは「総体的なつながり」から疎外されてしまっているのかもしれない。

 

読んでみた感想

ノンケのひとたちは「総体的なつながり」に(無自覚なままに)参与していながらも「特権的な他者とのつながり」に対して開かれている。それに対して、ゲイ男性はそれらのつながりにアクセスするには障壁があり、またそれらのつながりが分化されてしまっているので、参与しづらい状況にあるのに加えて、どちらか一方に参与するともう一方が抑圧的に働く。だからそこに「ついていけなさ」が発生する、という風な理解でいいのだろうか。

 

だったら、前回の感想にも書いた通り、TwitterInstagramなどのSNSが「総体的なつながり」に参与しながらも「特権的な他者とのつながり」に対して開かれているような状況をつくりあげているとはいえないだろうか? 2011年に博士号を授与された論文を書籍化しているということだから、SNSの状況も加味されているはずだけれど、どうなんだろう。気になる。

 

あとは、ぼくが感じているゲイコミュニティの「ついていけなさ」は、ゲイコミュニティ特有のそれというよりも、集合性=つながり一般に対する「ついていけなさ」なのかもしれないと思った。この点についてはまた改めて振り返る機会が持てたらいいな。

 

おわりに

かなり議論を端折ってしまったし、ぼくにもまだ理解できていない部分があります。「圏」のゼマンティクについての議論とか、とても大事なんだけれどうまく要約できそうになかったので、思い切って端折ってしまいました。議論の全貌を知りたい方は、ぜひ本書を手にとってみることをオススメします。難しいけれど、おもしろいです。

 

ゲイコミュニティの「ついていけなさ」は、今後も折に触れて取り上げていきたいと思っています。

 

「ゲイコミュニティ」の社会学