にげにげ日記

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(元)不登校ゲイの思索

『「ゲイコミュニティ」の社会学』感想②——男性同性愛者の誕生とつながりの変容

森山至貴『「ゲイコミュニティ」の社会学』を読んでちょっとずつ感想をブログに書いていくシリーズ第2回。

 

前回はこちら。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

今回から、いよいよ本編に入っていく。第1部は「つながりの編成」。男性同性愛者がいつ誕生したのかを振り返り、歴史的に見て「つながり」がどのように変容したかを確認するような内容になっている。予告していた通り、かなりざっくりした感想になっているのでご容赦ください。

 

ゲイ男性のつながりとは

まず本書では、ゲイ男性のつながりを2つに分類する。1つ目は、恋愛やパートナーシップ、セックスフレンドなど、セクシュアリティにもとづく2者(以上)の排他的な関係と定義される「特権的な他者とのつながり」。もう1つは、そのような排他性を伴わないゲイ男性全体のゆるいつながりというか、ぼくらが「ゲイコミュニティ」というときに想像するゆるい紐帯のようなものを指す「総体的なつながり」。

 

  1. 特権的な他者とのつながり
  2. 総体的なつながり

 

この2種類のつながりの関係性が、過去から現在に至るまでにどのように変容してきたのかを見ていくことによって、ゲイコミュニティの「ついていけなさ」が発生する契機が分かるという。

 

男性同性愛者の誕生

そのために、まずは歴史を紐解いて、男性同性愛者がいつ誕生したのかについて論じられている。いわく、前近代においても「男色」などといって、男性間の「性的関係を含めた肉体的精神的に緊密な関係」というものは存在したが、それは近代以降の性的アイデンティティとしての「ゲイ・バイセクシュアル男性」とは質的に異なる。そのことは、明治期の鶏姦罪の制定によって、”男性間の性行為”が犯罪化された(=行為者のアイデンティティは問われなかった)ことからも分かる。

 

その後、1920年代以降、同性愛が病理化されると、性的アイデンティティとしての「ゲイ・バイセクシュアル男性」というものが誕生し、その病理性は否定的な評価を受けるようになる。このようにして誕生した、性的アイデンティティを内面に埋め込まれた「悩める同性愛者」は、「悩み」というマジックワードによって、「特権的な他者とのつながり」と「総体的なつながり」をまとめあげ、不分明のまま(=混線して)、全体として「つながり」ができあがっていく

 

なかなか難しいけれど、たぶん、次のようなことをいっているんだと思う。セックスや恋愛の相手を探すことと、性的アイデンティティにまつわるさまざまな悩みを共有すること、それぞれの結果として、ゲイ男性全体の「つながり」ができあがっていた。そこに両者の分類は存在しなかった

 

「つながり」の変容——ハッテン場、ゲイバー、ゲイ雑誌

例えば、大正時代から戦後にかけて、(少なくとも東京では)公園や映画館が今日でいうハッテン場として連続して機能し続けていたらしい。そこでは、特定の他者との性的接触だけでなく、「悩み」の共有といった要素も含む総体的なつながりが混在していた。

 

しかし、そのように屋外施設をハッテン場として「流用」する流れは、2000年2月に新木場公園で起きた殺害事件を潮目として、現在の一般的な形式=使用料を払って入場するタイプの屋内ハッテン場が覇権を握るようになっていく。薄暗くてお互いの顔もよく見えない、大音量のBGMによって会話を遮られてしまうような空間では、「特定の他者とのつながり」は得られても「総体的なつながり」は得られないだろう。

 

このようにして、ハッテン場が「特定の他者とのつながり」の装置として先鋭化していく一方で、ゲイバーやゲイ雑誌などは「特定の他者とのつながり」とは無関係な側面(例えばゲイカルチャー)を重視した「総体的なつながり」として先鋭化していった。以前は混線していた2種類のつながりが分化していったのだ。その背景にあるのは、インターネットの隆盛だった。

 

20世紀史上、ゲイにとってもっとも革命的なできごとだったのは、ストーン・ウォール・イン事件でも、マルディグラのパレードでもなく、なんといっても「インターネットの誕生」(角屋学 2003「ネットライフ」伏見憲明編『同性愛入門【ゲイ編】ポット出版:65)

 

インターネットとゲイ男性のつながり

インターネットの出現によって、ハッテン場はゲイサイトの「即ヤリ掲示板」へ、ゲイバーにおける社交はSNSでの相互行為へ、ゲイ雑誌の情報はインターネット上のさまざまな情報サイトへと、その機能的な強みを譲り渡していった。だからといって、ハッテン場やゲイバー、ゲイ雑誌の存在意義がなくなったわけではないだろうが、それぞれの機能の代替として、インターネットは活用されるようになったとはいえるだろう。

 

そうして、つながりの目的と手段の関係性は、より純化されたものになっていった。例えば、ゲイバーで、恋人を求めるゲイ男性と会話を楽しみたいゲイ男性とが出会ってしまうことはありうるが、インターネット上では機能分化しているので、そのようなことは起こりづらい。

 

ハッテン場やゲイバー、ゲイ雑誌に比べて、つながり方の混線の可能性が著しく低いのが、インターネットというメディアの特性なのである(p.48)

 

インターネットの隆盛によって、ゲイ男性は、特権的な他者とのつながりと、総体的なつながりとを、明確に分かれた2種類のつながりとして生きざるをえない状況におかれるようになった。ここにゲイコミュニティの「ついていけなさ」発生の契機があるらしい。

 

読んでみた感想

うーん、難しくてほんの1部しかブログに書けなかった。詳しく知りたい方は、ぜひ本書を手にとってみてください。

 

第1部を読んでみて、「特権的な他者とのつながり」「総体的なつながり」という分類については納得したものの、インターネットによって機能分化が起こったということについては、ちょっと疑問が残った。TwitterInstagramのユーザでは、その両方のつながりを満たしているひともいるような気がする。

 

いろいろと思うところはあるけれど、とりあえずもうちょっと読み進めてみたい。読み進めているうちに、「ああ、そういうことだったのか」と納得できるかもしれないし。ということで、続きます。

 

「ゲイコミュニティ」の社会学