にげにげ日記

にげにげ日記

(元)不登校ゲイの思索

差別を受けるのも良い経験?——「何事も経験だ」に抗したい

おさむです。

 

熱狂的に好きな作品というわけではないのですが、たまたま何度も観る機会に恵まれて、最初に観たときはしばらく電車に乗れなくなるくらい心に傷を負った、そんな映画「チョコレートドーナツ」。

  

チョコレートドーナツ(字幕版)

チョコレートドーナツ(字幕版)

  • 発売日: 2014/12/02
  • メディア: Prime Video
 

 

※いまならアマプラとNetflixで見れます。

 

あらすじ

1970年代のカリフォルニアが舞台で、あるゲイカップルが、母親に育児放棄されたダウン症の子どもを引き取り、擬似家族を築いていく。しかしそんな幸せな暮らしは、周囲のひとびとの偏見や差別によって引き裂かれてしまう。

  

www.huffingtonpost.jp

 

最近、こちらの記事で取り上げられたことで話題にもなっていました。

 

www.youtube.com

 

お笑いコンビ「EXIT」のりんたろーもオススメしてました。

 

しんどすぎて電車に乗れなくなる

ぼくはこの映画をこれまで計4回観ているのですが、最初に観たのは劇場で、1人で。ひとびとの偏見や差別によって、人権が、幸せな擬似家族が蹂躙・粉砕されていくあの恐ろしさを追体験したような感覚になって、愕然として劇場を出ました。街へ出ると、ひとびとの目線(どんな偏見を持っているのかどうか)がものすごく気になって、電車に乗れなかったくらいトラウマになってました。

 

それから元彼や友人らと一緒に見たりしていくうちに、トラウマは除去されていきましたが、あの恐怖の感情はいまも身体のどこかにこびりついているような気がする。

 

glee」でカートがいじめられたり、サンタナが祖母から拒絶されたり、カロフスキーが追い詰められて自殺未遂をしたりするところも観てきましたが、あそこまで主人公に感情移入して物語を追体験したことは、いま振り返ってもこれまでに一度もない。それほど強烈でした。

 

「何事も経験だ」にマジレスします。

映画の最後に、主人公のルディが、ボブ・ディランの「I Shall be Released」を歌います。絶望の中で、必死にもがき、どうにか<光>を見つけようとするシーン。歌詞の一部を引用します。

 

人は誰でも守られるべきだといい

その一方で打ちのめされろという

 

これを聴いたとき、ふと連想したのが「何事も経験だ」という言葉でした。おそらく多くのひとが、先生や親、先輩などから言われたことがあるでしょう。この言葉、チャレンジを励ますために使われることもあれば、不条理を誤魔化すために使われることもあります。前者はいいけど、後者はセカンドレイプ的です。

 

ぼくが高校でカミングアウトをしていじめを受けていたとき、ある先生が言いました。「その経験も先生になったときに活かしなさい」(当時、ぼくは教員になりたいと思ってた)。励ます意図で言ったのかもしれないけれど、ぼくにとっては冷たく聞こえました。私にはどうにもできないよ、いまは我慢するしかないよ、と。

 

ひとはいろんな経験を通して成長する。だからどんな経験もいずれプラスに働く。そんな<経験>イデオロギーでもって、不条理を訴える声を塞いでしまう。やめてくれ、と思う。勝手に美談(≒<経験>)に仕立て上げようとしないでくれ。

 

<経験>にならない経験

それは例えば、6年間のひきこもり経験のある山田ルイ53世が、ひきこもり経験を「無駄だった」と言い切るところに繋がります。

 

あの6年間があったからこそ今の自分がある……とは思わない。ムダはムダ。負けは負け。それ以上でもそれ以下でもないし、それでいい。『人生に無駄なことなんてない!』という考え方は、裏を返せば無駄があってはいけないということ。そんな風潮自体がしんどいというか、人を追い詰めることもあると思う。

 

oceans.tokyo.jp

 

巨視的に見れば、すべての経験は何らかの意味を与えられて、その経験をした個人の人生を形成する。それは間違いありません。しかし、それは必ずしも<経験>にならない。ただただみっともなく、傷がうじうじ痛むだけの経験もある。何の役にも立たない、無駄で非合理な経験。ぼくはここでその一例として「差別を受けること」を挙げたい。

 

差別を受けるのも良い経験?

ここで考えたいのは、差別は<経験>になるのかどうかということではありません*1。そうではなくて、差別すらも<経験>に仕立て上げないと(美談として物語らないと)いけないのか、ということ。

 

つまり、「何事も経験だ」というお説教は、「すべての経験は何らかの意味を与えられて、その経験をした個人の人生を形成する」ということを指し示しながら、同時に、そのようにすべての経験を(差別を受けることすらも)ポジティブに、建設的に、動員していけ、という命令として働きうるのではないか、と。

 

だからぼくはここで立ち止まって、傷が疼いてみっともなく絶望している自分を、拙速に美談に仕立て上げたりせず、じっくり舌の上で転がしたい。ルディの横に立って、両手を広げてボブ・ディランを歌う。叫ぶ。

 

はっきり見える もう1人の私が

この壁を超えた遥か向こうに

私の光がやって来るのが見える

西から東へ輝きながら

もうすぐ 今日にでも 私は解き放たれる

 

おわりに——美談にならないアレ

最近、保毛尾田保毛男や轟さん、淫夢ネタなどを見ても、あまり傷つかない自分にふと気付き、驚く。学生時代だったらものすごく傷ついていたはずです。「これでいいんだっけ?」と思います。それらは差別であって、問題があるから批判されてきたのだけれど、一方で、それらを見飽きるほど、見慣れてしまうほどにそういったものを見てきているのではないだろうか*2

 

見慣れてしまった差別や偏見が、街中に、電車の中に、あちこちに潜んでいる。そいつに遭遇しそうになると、身体にこびりついたアレがそわそわし始める。<経験>にならないアレ。脊髄反射で身構える。グッと身体に力が入る。差別を受け(続け)るということは、端的に言ってこういうことであって、美談に仕立てあげられるような代物ではない。少なくともぼくはそう思います。

 

「轟さんはゲイじゃない。ただ筋肉が好きなだけ」などという詭弁は、このような現実を捉えられていない。淫夢ネタで戯れるひとびとは、このような文脈というものを尽く軽視している。

 

表現の自由は、差別をしていい自由にはならない。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

差別を受けることは、<経験>にはならない。しなくてよい。

 

Any Day Now (Original Motion Picture Soundtrack)

*1:何らかの差別を受けて、そのことで何かを得たというひともなかにはいるでしょう。

*2:その点、若いひとたちは見慣れていないわけで、このようなものを見て深く傷つくだろう。