つい先日、こちらの記事に次のようなコメントをいただいた。
地縁や血縁が煩わしくて出ていくのだから、戻る場所が無いのは当然では? 何でも社会のせいにするってひどすぎると思いますよ
久々のコメントで湧いたのだが、よくよく読んでみるとおかしな内容だと思った。
ファッキュー、地縁・血縁
まず、コメントの前半が記事の内容を履き違えている。地縁や血縁が煩わしいから出ていったのではない。その前提として、地縁や血縁のコミュニティが異性愛中心主義やホモフォビア・トランスフォビアなどを伴っていたという状況があったことを見落としている。言ってしまえば、ぼくはそれらのコミュニティからパージされた。
強制的にそこから追い出されたという事実はないけれど、居心地を悪くして居場所を奪ってしまうという意味では、パージされたと言ってもいいだろう。
あと、戻る場所がほしいんじゃなくて、新しいコミュニティやネットワークをつくりたいっていう記事だからね……。ちゃんと記事を読んでからコメントしてください。
自己責任論へのアンチテーゼ
それから、コメントの後半「何でも社会のせいにするってひどすぎると思いますよ」。これがとても興味深いと思うのは、この文章を裏返すと「何でも自分のせい(=自己責任)にするのは良いことだ」となるように読めるからだ。いわゆる自己責任論だが、ここまで露骨に言われるといっそすがすがしい。
また、このコメントから言えることは、先の記事が自己責任論に対するアンチテーゼとして機能しているということだ。だからこそ自己責任論者からコメントをいただくことができたのだろう。
社会をつくっていく
ぼくは、自己責任論には与したくないと思っている。もちろん責任感を持つことは大事だが、それよりも大事なのは、社会のせいにしていくことだと思っている。なぜなら、社会は所与のものではないから。社会は、ぼくらがつくっていくものだ。だからこそ、社会のせいにして、社会問題にして、少しずつ解決していく必要がある。何でも個人のせいにしてしまう自己責任論は、その経路を閉ざしてしまうという意味でも問題だ。
自己責任論者からすると、何でも社会のせいにして、自分のせいにしないぼくは「ひどすぎる」やつだと映るのだろう。それでいい。ぼくは「ひどすぎる」人間なので、これからもどんどん社会のせいにしていくつもり。