にげにげ日記

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(元)不登校ゲイの思索

LGBTQもカップルばかりじゃないのに——LGBTQ運動の現状への半ギレ

表題について、まずは表象の話から始めたい。例えば、同性愛者がどのように映画で描かれるか。以前、Netflixの映画「オールド・ガード」の感想を書いたときにもちょっと触れたが、同性愛者の表象は、カップル単位になりがち。他のキャラクターに恋をしていたり、他のキャラクターとカップリングされていたり。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

描きやすい同性愛と、描きにくい同性愛

これは、「同性愛」というものを描くときにそうしたほうが描きやすいという側面もあれば、(男性同性愛の表象については)BL市場への目配せという側面もあるだろうし、ノンケのひとたちが受け入れやすい表象のかたちという側面もあるだろうし、同性愛者らもまたそのようなロマンティックな表象を求めているという側面もありそう。いずれにしろ、ひとりで暮らしている同性愛者や、誰かと恋をしたりカップリングしたりしていない/するつもりがない同性愛者のことは描かれない傾向にあるように思う。

 

ちなみに、「恋する同性愛者」「カップリングする同性愛者」でない同性愛者の表象でいうと、映画「スリー・ビルボード」を思い出す。あるキャラクターが、職場でこっそりABBAの曲を聴いているという描写だけで、そのキャラクターが同性愛者であることを表していた*1。もちろんハイコンテクストな描写なので、気づかないひとは気づかないだろう*2。でも、そのような表象だってあり得るのだ、ということは重要なんじゃないかと思う。

 

スリー・ビルボード (字幕版)

スリー・ビルボード (字幕版)

  • 発売日: 2018/05/16
  • メディア: Prime Video
 

 

LGBTQ運動のアジェンダと、カップリング主義

閑話休題。同性愛者の表象がカップル単位になりがちな問題は、LGBTQ運動というもののアジェンダが、同性婚の成立や同性パートナーシップ制度の策定(だけ)になりがちな現状と無関係だとは思えない。本当はもっといろんな課題があって、トランスジェンダーの諸権利や、同性間のDV、同性間の性暴力、LGBTQユースの安全と教育、家父長制、男女の賃金格差などなど、もっとたくさんあるはず。なのに、なぜか昨今のLGBT運動といえば、同性婚!同性パートナーシップ制度!カップリングわっしょい!ということになってしまってはいないか?

 

もちろん、同性婚や同性パートナーシップ制度が重要でないと言いたいわけではない*3同性カップルが使えるリソースを拡充する動き自体は必要だと思う。それはもう切実に思う。ぼく自身、同性の恋人がいるが、例えば同棲のための賃貸契約の際には大きな困難に直面したし、これからのことを考えるといろいろと不安もある。もっとリソースが必要だと思う。リソースをくれ!

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

ただ、ぼくが考えているのは、LGBTQ運動というもののアジェンダが、同性婚や同性パートナーシップ制度などで独占化されてしまい、なぜかカップル単位での権利獲得が目指されていることについて、もっともっと問い直されてもいいのではないか、ということ。これはLGBTQ運動だけに限ったことではないが、福祉や社会保障や人権政策において、世帯やカップルを単位にするのではなく、個人を単位にしたものが必要なのではないかと思う。異性愛者と同様、同性愛者だってみんながつがいを作るわけじゃないし、つがいを作ったとしても、どこまで長続きするかは分からないし、いずれにしても必ずどちらかが先に死ぬわけだし。

 

このような現状や問題は、日本だけに限ったことではないようで、Netflixのドキュメンタリ「マーシャ・P・ジョンソンの生と死」では、トランスジェンダーへのヘイトクライムについての裁判を傍聴するひとがあまりに少ないことを嘆いて、「昔はゲイ同士の結婚を当局に認めさせるためにみんなが逮捕を覚悟でデモをしてた。でも結婚が認められるとゲイは去った。トランスジェンダーは置いてけぼり。LGBTの”T"はどうでもいいのか?」と問いかけるシーンがある。

 

www.netflix.com

 

LGBTQ運動と資本主義の蜜月 (?)

議論のプロセスを省いてしまうようだが、LGBTQ運動というもののこのような現状は、資本主義の論理がかなり影響しているんだろう。高所得で、見栄えが良くて、お金を生み出す能力を持っている同性愛者だけを取り上げ、経済効果があるぞ!という電通の一声によって、始まった流れがある。要するに、同性婚や同性パートナーシップ制度をゴールとする運動は、キラキラしていて、美しくて、売れる。

 

ぼくらは、人権問題に取り組んでいるつもりが、いつの間にか巨大な資本の論理にただ巻き込まれてしまってはいないか。

 

もちろん、この流れによって、あるいはこの流れを”利用”したLGBTQ運動というものによって、LGBTQの可視化や啓発が進められた側面もあるだろうから、そのことはちゃんと評価されなければならないと思うし、ぼく自身もその恩恵を多少なりとも受け取っているはず。ただ、それはそれとして、ここらでちょっと一旦立ち止まって、アジェンダの設定を考え直してもいいのではないか?

 

他方で、LGBTQ運動といっても、一枚岩ではない。主流派の動きに対して、カウンター的に運動を行なっているところもある。でも、あまりに主流派の動きが大きすぎて、どうしようもない、という側面があるのかもしれない。お金のない、見栄えも良くない、これといった能力もないLGBTQが人権を獲得していくためには、いま何が必要なのだろうか。どのような運動が必要なのだろうか。そのことについて考えていきたいと思っている。

 

補論:「ザ・ボーイズ」とLGBTQ——同性カップルのイメージ戦略

Amazon prime videoオリジナルドラマ「ザ・ボーイズ」は、スーパーマンワンダーウーマンのようなスーパーヒーローが、そのパワーを欲や名声のために使うクソ野郎ばかりだったらどうなるか、というお話で、アメリカにおけるさまざまな差別の現代的なあり方を独特なやり方で(皮肉っぽく)描いていて面白い*4

 

  

スーパーヒーローたちは、「ヴォート」という企業に雇用されていて、国内の「悪」と戦うほか、映画やCMなどに出演するポップアイコンとしても活躍する。そのうちのひとりが、クローゼットのバイセクシュアル女性なのだが、そのことをほかのヒーローにアウティングされるやいなや、「ヴォート」はそれをイメージ戦略として利用しようとする(特にシーズン2の第5話「行動の時」にて)

 

例えば、彼女が出演する映画では、「アイデンティティの葛藤に苦しんでいるところを、エレナという女性(実際の恋人だが、実は関係がうまくいっていない)と出会うことで、本当の自分を知る」という脚本が新たに練られたり、巨大なレインボーフラッグを掲げた勇ましい姿のイメージ画像がつくられたり、ゲイ番組やレインボープライドへの出演が決められたりする。そして、「バイセクシュアルと言うよりは、レズビアンと言ったほうが、信頼されるし、分かりやすいから」などと指示される。さらには、エレナにボーイッシュな格好をすることを薦め、「アメリカ人は、ジェンダー役割がハッキリしているゲイカップルを受け入れる傾向にある」などと説明する。

 

行動の時

行動の時

  • メディア: Prime Video
 

 

以上の描写からは、さまざまな問題が読み取れるが、そのうちのひとつは、レズビアン(本当はバイセクシュアルだが)スーパーヒーローとして打ち出すにあたって、パートナーのエレナが担ぎ出されているということ。これはやはり、LGBTQ運動というものとカップリング主義とのあいだには強い絆があるのだということの証左だろう。なぜ単身じゃダメだったのだろうか。

 

front-row.jp

 

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*1:とはいえ、彼もまた「恋する同性愛者」ではあるのだが。

*2:ぼくはこの映画を見たとき、もしかしてそうかもしれない、とは思ったが、パンフレットの町山智浩さんの文章を読むまで確信はできなかった。

*3:同性婚が成立した国では同性愛者の自殺率が大幅に減少したという記事も見たことがある。

*4:これを見るためだけにAmazon prime会員を継続しているといっても過言ではない。