にげにげ日記

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(元)不登校ゲイの思索

『「ゲイコミュニティ」の社会学』感想①——ゲイコミュニティの「ついていけなさ」について

大学生のときに一度手にとって、難解ゆえに挫折してしまった、森山至貴『「ゲイコミュニティ」の社会学』を改めて読んで、ちょっとずつブログに感想をまとめていくという試みに挑戦したい。また途中で挫折してしまったらごめんなさい。

 

「ゲイコミュニティ」の社会学

「ゲイコミュニティ」の社会学

  • 作者:森山 至貴
  • 発売日: 2012/09/01
  • メディア: 単行本
 

 

なぜこの試みに挑戦してみたいと思ったかというと、本書がテーマとしている”ゲイコミュニティの「ついていけなさ」”をぼくも感じていて、どうにかできないものだろうかと考えていたから。

 

風が心にささやくの——本書を読む理由

ぼくは、ゲイコミュニティにおけるポジショニングとして、ゲイバーやゲイサークルなどの代表的な「居場所」や中間集団のようなものにはいまいち馴染めなかったゆえに、レリゴーして、このようにゲイブログという孤城を築いているといえる。そう、私はエルサ。

 

もちろんゲイの知人友人との交流はいまでもあるけれど、ホームベースはこの孤城なんじゃないか。そんな気がしている。だったら、ゲイコミュニティの片隅にひっそりと佇む孤城に住むひとりのエルサとして、ゲイコミュニティとは何なのか、この「ついていけなさ」とは何なのか、探求してみたいと思った。レリゴーからイントゥ・ジ・アンノウンへ。アア〜〜アア〜〜。

 

さて、本書は序章を除けば3部構成になっている。なので、序章と第1部〜第3部で全4回に分けられそうだ。だいぶ長丁場になってしまいそうだけれど、ちまちま読み進めては感想を書いていきたい。

 

みんなが「ついていけなさ」を抱えている?!

さて、早速、本書に取りかかろう。今回は序章を取り上げてみる。本書では、前提として、どんなゲイ男性も多かれ少なかれゲイコミュニティの「ついていけなさ」を抱えているはずだとしている。より正確にいうと、「中心的なゲイ像」というものをでっちあげて、それに合致するゲイ男性とそうでないゲイ男性、と分類・比較するような安易さを回避しようとしている。

 

そういわれてみれば、実状としては、男らしいゲイを装っているひとが「男らしさ」というものに違和感を覚えていたり、ゲイサークルに加入しているけれど微妙な居心地の悪さを感じていたりといった話はよく聞くし、そこに境界線はきれいに引けないのだから、みんなが少なからず「ついていけなさ」を抱えているのではないかという視座を持つ意義は感じられる。

 

だとすれば、エルサは反省しなければならない。「ついていけなさ」を抱えているのは自分だけだと思っていた。キラキラしたゲイライフを送っているひとと自分とは違う生き物のように思っていた。敵対構造をつくりあげて、満足してしまっていた。アナを敵対視して、何かが解決するのだろうか? それよりも、ほかに議論すべきことがあるんじゃないか?

 

問い直される「ゲイコミュニティ」

序章の冒頭では、ゲイコミュニティの透明化(=議論の的から外されている)が指摘されている。その背景にあるのは、「差別される個人対差別的な「全体社会」という単純な二項対立に事態が図式化され」(p.5)ている、という状況。例として挙げられているのは、「ハッテン場で男とセックスするのにゲイバーに来ないのは、内なるホモフォビアのせいだ」という言説。

 

要するに、ホモフォビックな「全体社会」が悪いか、それとも個人が悪いかの二択になってしまっていて、その間にある無数の中間集団は問われずにいる、と。選択肢は、事態を単純化してすっきりさせる機能があると同時に、ひとを視野狭窄に陥らせるという逆機能もある。恐ろしい。

 

もちろんホモフォビックな「全体社会」を批判することは大事なのだが、それだけに問題を還元してしまって、ゲイコミュニティの「ついていけなさ」が批判されないのはおかしい。ゲイコミュニティのあり方について議論されたっていいはずだ。だけど、そのためのテーブルがなかなか用意されていない。

 

じゃあ棲み分ければいい、といってしまっていいのか

これまでの話を振り返ってみる。どんなゲイ男性も多かれ少なかれ「ついていけなさ」を抱えている。それを問題化するにあたって、差別される個人対差別的な「全体社会」という単純な二択が用意されてしまっているために、その間にあるゲイコミュニティについてはなかなか議論されづらい(=透明化)

 

本書ではまた、ゲイコミュニティを問い直す際に、「棲み分け」の問題もあるのだと指摘する。例えば、ゲイタウンに行くことを促す向きがある。行きたいひともいれば、行きたくないというひともいる。じゃあ、行きたいひとは行きたいひと同士で行って、行きたくないひとは行きたくないひと同士で別のところへ行けばいいじゃないか、と。こういう棲み分けは、「現に起こっているし、必ずしも忌避されるべきだとは言えない」(p.12)としながらも、問題だという。なぜなら、そこでもやはりゲイコミュニティの透明化が起こってしまうから。

 

考えてみれば、ゲイコミュニティって、狭いわりにめちゃくちゃ「棲み分け」がなされているように思う。体型や年代、趣味、ライフスタイルなどで細かく棲み分けられている。それが必要とされているのはぼくも分かるけれど、一方で、そのことによってゲイコミュニティそのものが問い直される機会が失われているんだとしたら、残念なことじゃないだろうか。

 

ゲイコミュニティの「ついていけなさ」とは何か?

ここまで2,000字ほど書いてきたが、本書はまだ10ページちょっとしか読めていない。内容が濃すぎる。大変な試みに挑戦してしまったと、すでに後悔し始めている自分がいる。

 

最後に、ここまで繰り返し言及してきた、ゲイコミュニティの「ついていけなさ」とは何なのかについての定義を紹介しておきたい。本書では、日高康晴が2005年に行った調査『SPIRITS@WAVE2』を参照して、4つに大別された”ゲイ男性が抱える「心の不安」”を紹介する。

 

  1. 生育歴におけるストレス
  2. 交友関係におけるストレス
  3. セックスに投影される心理
  4. 異性愛者的役割葛藤と精神的健康

 

それぞれの詳細は本書や『SPIRITS@WAVE2』を参照してもらうとして、ここでは「2.交友関係におけるストレス」が、本書におけるゲイコミュニティの「ついていけなさ」と接続されていることを示すに留める。

 

マジョリティによる不当な扱い(のみ)ではなく、マイノリティがマイノリティ集団やマイノリティ同士の相互行為の中で感じる「生きづらさ」、共有されている(とされる)価値観やライフスタイル、大まかにまとめてしまえば「物語」からの疎外感、それへの「ついていけなさ」なのである。(p.9)

 

まあ、これまで何となく実感として覚えていた「ついていけなさ」と大体同じ意味であることは理解できたが、重要なのは、ゲイ男性が抱える「心の不安」の1つとして、このような「ついていけなさ」が挙げられていることだろう。みんな結構、ついていけてないって感じてるのね。

 

 おわりに——わたしとゲイコミュニティ

序章では、ゲイコミュニティについてわたしたちが語るときに陥りがちな隘路がいくつか指摘され、そのうえでゲイコミュニティについて語るためのテーブルが(ようやく)用意された、という内容になっていると思う。

 

わたしが悪いのか、それとも差別的なこの社会が悪いのか。その二択に縛られず、また、「ついていけなさ」の原因を個人の特性に還元してしまわずに、わたしとゲイコミュニティとの関係や、ゲイコミュニティのあり方を問い直していく。そのようなことが行われていけば、ゲイコミュニティはもっと良くなるのではないか。「ついていけなさ」は解消されていくのではないか。

 

それがいかに難しいことであるかは、上述した通りであるが、ひとまず今回はそんな想像を浮かべるに留めて、これからまた本書の続きを読んでいきたい。

 

20ページほどしかない「序章」でこれほどの長文になってしまったので、先行きがとても不安だが、なんとか読み進めたい。もしかしたら、次回以降はかなり端折ってざっくりした感想になっているかもしれないし、いわゆる「失踪」してるかもしれません。お楽しみに。

 

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