にげにげ日記

にげにげ日記

(元)不登校ゲイの思索

購入から約1年経った「写ルンです」を現像してみた。

写真を撮るのがホントに苦手で、撮られるのもそんなに好きではないのだが、自分で何かを撮るという習慣がまったくない。写真を見返して思い出に浸るようなことも滅多にしない。出会い系アプリのプロフィール写真も3〜4年前から変わっていない。

 

アメリカのドラマなんかを見ていて、ホームパーティをしているときにどこからかアルバムを持ってきてみんなで見ながら談笑する、みたいなことをいつかやってみたいなあとは思うが、ホントにホントにぼくは写真を撮らないので、これができる日はこないのだろうなあと思っている。

 

でもどこかでそれを諦めきれない気持ちがあって、去年の秋頃に「写ルンです」を買った。スマホで撮るのはダメでも、「写ルンです」なら撮れるんじゃないかという気がした。いわゆる形から入ってみるというやつ。実際、それまでよりかは写真を撮った。約11ヶ月かけて、27枚の写真を撮った。出先でなんとなくカバンを開けて、「あ、『写ルンです』買ったんだった」と気づいたときに3〜4枚くらい撮る、ということを繰り返した。

 

とうとう限界まで撮影して、現像してみたら、撮った写真の半分が真っ暗で、何を撮ったのかさっぱり分からなかった。フラッシュを焚かずに撮ったせいみたい。残りの半分も、ブレてたりボヤけてたりして、まともな写真はほぼなかった。3,000円(本体代+現像代+スマホ転送代)も払ってこれか、と思ってしまう。

 

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どこでなにを撮ったのかも思い出せない。なんだこれ。

 

できた写真を彼氏と共有して、アレコレおしゃべりをした。写真美術館に行ったときの写真、早朝に代々木公園でパンを食べたときの写真、井の頭公園アメリカンドッグを頬張っている写真、焼肉の食べ放題で食べすぎて胃薬を買って薬局から出てくるところの写真。なんてことはない普通の日常風景が、写真という形になることで特別な思い出だったような気がしてきた。

 

約11ヶ月でたったの27枚なので、取りこぼした風景のほうが圧倒的に多い。ほとんどが写真に残っていない。旅行や誕生日、記念日など、本来撮るべきであろう風景を尽く撮れていない。その中で、なんの必然性もなく、たまたま選ばれた風景が27枚(ちゃんと見れるのは13枚)ある。そのことがちょっとだけ愛おしく思えた。

 

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たぶんバスの後部座席で寝ているところ。

 

これからはもっと写真を撮ろう、とは思わない。やっぱり写真を撮るのは苦手だし、そもそも撮ろうというモチベーションがどこからも湧いてこないから仕方ない。それでもカバンに「写ルンです」が入っていて、たまにそれに気づいて何枚か撮ってみる、みたいなことを続けていれば、いつか1冊くらいはアルバムを作れるんじゃないかという気がしてくる。

 

あともう1回だけ「写ルンです」を買ってみようかと思う。次はちゃんとフラッシュを焚いて、全部の写真が暗くならないように工夫したい。

 

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退廃。

 

異性愛者はカミングアウトなんてしない。

おさむです。

 

先日、Twitter上で話題になった下記の件について、考えたことをまとめておきます。

 

 

問題の概要——「カミングアウト禁止」?

記事では、同性愛者や両性愛者など「性的指向」に関するカミングアウトについて、人事担当者が留意すべき3つのこととして、以下の3点を挙げています。

 

  1. 会社としての方針を定めておくこと
  2. 当事者本人の希望(意思)を確認すること
  3. 当事者を腫れ物扱いしないよう配慮すること

 

ここまではなんとなく分かる。しかし、その後の記述が問題となりました。「1.会社としての方針を定めておくこと」について、例えば、面接のときやエントリーシート上で当事者がカミングアウトをしてくることを想定して、会社としての方針を定めるように記事は促しています。ここでは、その方針の選択肢として3つ挙げられています。

 

  • 職場でカミングアウトすることは問題ない
  • 職場でカミングアウトすることは問題ないが、あくまでも自己責任
  • 職場でカミングアウトすることは原則的に認めない

 

3点目の「原則的に認めない」が注目されて、問題となりました。「異性愛者は職場で恋愛や家族の話をしているのに、なぜ同性愛者や両性愛者はダメなんだ」と。

 

異性愛者はカミングアウトしているのに」

大まかな問題意識は共有していると思うのですが、ただちょっと気になることがありました。「原則的に認めない」との記述に対する反論として、「異性愛者はカミングアウトしているのに」とか「じゃあ異性愛者もカミングアウト禁止で」とかいうものがいくつか見られたのです。

 

言いたいことは分かります。同性愛者や両性愛者と異性愛者とを対置させて、「なんでそっちはいいのに、こっちはダメなんだよ」と。でも、ここで「カミングアウト」という言葉を使うことで見えなくなっている構造があるように思うのです。

 

異性愛者は、カミングアウトなんてしません。する必要がない。異性愛であることはフツウなことで、わざわざ公表したりリスクを負って発言したりすることはありません。一方で、同性愛者や両性愛者はカミングアウトしないと「いないこと」にされます。異性愛者と見なされる。そして差別や偏見があるために、カミングアウトは困難でリスキーなものであって、少なくない当事者が異性愛者を装って過ごすことになっています。

 

つまり、異性愛中心主義のこの社会が、カミングアウトの負担とそのリスクをこちら側(だけ)に押し付けている。同性愛者や両性愛者だけがこの負担とリスクを負わされていて、一方で異性愛者は負わずに済んでいる。「当たり前じゃん」と思われるかもしれませんが、そうでしょうか?

 

ぼくらはカミングアウトを押し付けられている

セクシュアリティに関して平等な社会とはどんな社会だろうかとたまに考えます。例えば、カミングアウトしなくても安全な環境にいられて、自分に合った制度を利用することができて、カミングアウトをしたとしても攻撃に晒されたりしない社会とかどうでしょうか。そういう社会もあり得るのだと考えると、同性愛者や両性愛者だけがカミングアウトの負担やリスクを負わされることが「当たり前」ではないように思えてきます。

 

でも、現状は違います。先に書いたように、この社会では、カミングアウトの負担とそのリスクをこちら側(だけ)に押し付けられています。そんな社会では、異性愛者は、同性愛者や両性愛者が体験するような「カミングアウト」を体験することは絶対にできません。そこには大きな溝がある。この非対称な構造をしっかり捉えなくてはいけない。

 

このような異性愛中心主義の社会を作り、再生産しているのがマジョリティ=異性愛者だとすれば*1、その上、同性愛者や両性愛者のカミングアウトを認めるかどうかの裁量を持つよう推奨するなんて、意味がわからない。許せるわけがない。だからこの記述は問題なんだとぼくは思います。

 

おわりに——カミングアウトは自由だ

高校生のとき、ぼくは全校生徒の前でカミングアウトをしました。表彰式の場を利用して、Tシャツに「私はゲイです」と書いて登壇しました。先生や同級生は、そのやり方を非難しました。「あのやり方はどうかと思う」と。当時のぼくはそれを間に受けて反省していましたが、いまとなってはおかしいと思います。

 

異性愛者には、カミングアウトを認めるか認めないかとか、そのやり方がどうだとか非難する権利はないと思います。それより先にまず、異性愛中心主義を作り、再生産している自分たちの足元をよく見てみてほしい。自分たちが何を踏みつけているのか。

 

踏みつけておきながら、踏まれた側が「おい、足をどけろよ」と言ったのに対して、「なんだその言い方は」と返すのは、いわゆるトーン・ポリシングでしょう。「足をどけて」と言わなきゃいけないのは、踏まれているからです。そもそも踏まれていなければ、何も言わなくていい。踏みつけておきながら、「足をどけて」という声を認めるか認めないかを決める権限を持つよう推奨するのはおかしい*2

 

異性愛者はいいのに、なぜ同性愛者はダメなのか」と比較してしまうのはちょっとズレているような気がしています。ここで問うべきは「非対称で差別的な構造を作っておきながら、その上どうしてカミングアウトを認める/自己責任だ/認めないなどという上から目線に立てるのか(そのように推奨する記事が書けるのか)」ということなのかなあと、ぼくは思いました。おわり。

 

カートの告白

*1:マイノリティの側も再生産に寄与しているってこともよくあることですが

*2:こういうマジョリティの傲慢さみたいなのを顕在化させたという見方もあるかも、と思いました。

お部屋が決まりました。同棲スタート!

おさむです。

 

6月頃から続けていたお部屋探しがとうとう終わりました!

 

これまでの経緯はこちら。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

意外とあっさり決まった

過去の記事に書いたように、一般的な不動産屋を利用して部屋探しをしていましたがなかなか決まらず、LGBTのための不動産屋「IRIS」を利用するようになりました。IRISでは、普通の不動産屋がぼくらの関係を「同性の友達同士のルームシェア」としてしか管理会社や大家へ説明してくれないところを、「これこれこういう関係で…」と詳しく説明してくれるらしい。「ルームシェア可」じゃない物件も選択肢に入るので、候補となるお部屋がめちゃくちゃ増えました。

 

iris-lgbt.com

 

ステマではありません。

 

候補を絞って、内見へ行きました。担当者もゲイで、「一般的な男2人暮らしだと最低限これくらいの広さは必要」「1部屋まるまる使ってキングサイズのベッドを置いて寝室にしているカップルもいる」などいろいろ教えてくれました。そのなかから1部屋良さそうなところがあったので応募してみたら、あっさり通りました。

 

違約金の期間を延長されたり保証会社とは別に保証人を立てなきゃいけなかったり、みたいなことは起きていません。友達同士と偽って契約するよりもぜんぜん楽だし、気持ちがいい!

 

内定ブルーになる

あまりにもあっさり決まったのもあってか、ぼくも彼氏も「内定ブルー」になりました。同棲するってことも含めて、「これで本当にいいのかな…?」と不安に。間取りはこれで本当に良かったのかな、立地や家賃もこれで本当に大丈夫かな、てかそもそもぼくらって同棲できるのかな、と。

 

軽くケンカみたいなこともしたし、正直いまもまだ不安はあります。引越しの準備に追われているので普段は意識していないけど、ふと我に帰って「あれ、これでいいのかしら…?」と不安になる感じ。

 

でもね、ここにずっと住むわけじゃないし、しっかり内見して考えて出した答えだし、きっと大丈夫。同棲するにあたっていろいろ困難もあるだろうけれど、それと向き合って乗り越えていくのもパートナーシップの醍醐味。そう考えてみようと思いました。

 

おわりに——はじめての同棲!

こんなクソ暑い季節に引越しするなんて、自分でも信じられません。荷物を詰めて、要らないものは捨てて、引越し業者に問い合わせて、家電や家具を買い揃えて、住所変更届を各所に出して…とやること山積みです。

 

お金の負担や家事の分担についても話し合わなくてはなりません。「ルール決めだけは最初にしておいたほうがいいよ」と、IRISの担当者にも言われました。

 

とりあえず部屋探しがひと段落してホッとしています。いままでTwitterなどで部屋探しを応援していただいたり、IRISの存在を教えてくださったり、いろいろとありがとうございました。また経過報告などしていけたらと思っています。

 

第02話

 

差別を受けるのも良い経験?——「何事も経験だ」に抗したい

おさむです。

 

熱狂的に好きな作品というわけではないのですが、たまたま何度も観る機会に恵まれて、最初に観たときはしばらく電車に乗れなくなるくらい心に傷を負った、そんな映画「チョコレートドーナツ」。

  

チョコレートドーナツ(字幕版)

チョコレートドーナツ(字幕版)

  • 発売日: 2014/12/02
  • メディア: Prime Video
 

 

※いまならアマプラとNetflixで見れます。

 

あらすじ

1970年代のカリフォルニアが舞台で、あるゲイカップルが、母親に育児放棄されたダウン症の子どもを引き取り、擬似家族を築いていく。しかしそんな幸せな暮らしは、周囲のひとびとの偏見や差別によって引き裂かれてしまう。

  

www.huffingtonpost.jp

 

最近、こちらの記事で取り上げられたことで話題にもなっていました。

 

www.youtube.com

 

お笑いコンビ「EXIT」のりんたろーもオススメしてました。

 

しんどすぎて電車に乗れなくなる

ぼくはこの映画をこれまで計4回観ているのですが、最初に観たのは劇場で、1人で。ひとびとの偏見や差別によって、人権が、幸せな擬似家族が蹂躙・粉砕されていくあの恐ろしさを追体験したような感覚になって、愕然として劇場を出ました。街へ出ると、ひとびとの目線(どんな偏見を持っているのかどうか)がものすごく気になって、電車に乗れなかったくらいトラウマになってました。

 

それから元彼や友人らと一緒に見たりしていくうちに、トラウマは除去されていきましたが、あの恐怖の感情はいまも身体のどこかにこびりついているような気がする。

 

glee」でカートがいじめられたり、サンタナが祖母から拒絶されたり、カロフスキーが追い詰められて自殺未遂をしたりするところも観てきましたが、あそこまで主人公に感情移入して物語を追体験したことは、いま振り返ってもこれまでに一度もない。それほど強烈でした。

 

「何事も経験だ」にマジレスします。

映画の最後に、主人公のルディが、ボブ・ディランの「I Shall be Released」を歌います。絶望の中で、必死にもがき、どうにか<光>を見つけようとするシーン。歌詞の一部を引用します。

 

人は誰でも守られるべきだといい

その一方で打ちのめされろという

 

これを聴いたとき、ふと連想したのが「何事も経験だ」という言葉でした。おそらく多くのひとが、先生や親、先輩などから言われたことがあるでしょう。この言葉、チャレンジを励ますために使われることもあれば、不条理を誤魔化すために使われることもあります。前者はいいけど、後者はセカンドレイプ的です。

 

ぼくが高校でカミングアウトをしていじめを受けていたとき、ある先生が言いました。「その経験も先生になったときに活かしなさい」(当時、ぼくは教員になりたいと思ってた)。励ます意図で言ったのかもしれないけれど、ぼくにとっては冷たく聞こえました。私にはどうにもできないよ、いまは我慢するしかないよ、と。

 

ひとはいろんな経験を通して成長する。だからどんな経験もいずれプラスに働く。そんな<経験>イデオロギーでもって、不条理を訴える声を塞いでしまう。やめてくれ、と思う。勝手に美談(≒<経験>)に仕立て上げようとしないでくれ。

 

<経験>にならない経験

それは例えば、6年間のひきこもり経験のある山田ルイ53世が、ひきこもり経験を「無駄だった」と言い切るところに繋がります。

 

あの6年間があったからこそ今の自分がある……とは思わない。ムダはムダ。負けは負け。それ以上でもそれ以下でもないし、それでいい。『人生に無駄なことなんてない!』という考え方は、裏を返せば無駄があってはいけないということ。そんな風潮自体がしんどいというか、人を追い詰めることもあると思う。

 

oceans.tokyo.jp

 

巨視的に見れば、すべての経験は何らかの意味を与えられて、その経験をした個人の人生を形成する。それは間違いありません。しかし、それは必ずしも<経験>にならない。ただただみっともなく、傷がうじうじ痛むだけの経験もある。何の役にも立たない、無駄で非合理な経験。ぼくはここでその一例として「差別を受けること」を挙げたい。

 

差別を受けるのも良い経験?

ここで考えたいのは、差別は<経験>になるのかどうかということではありません*1。そうではなくて、差別すらも<経験>に仕立て上げないと(美談として物語らないと)いけないのか、ということ。

 

つまり、「何事も経験だ」というお説教は、「すべての経験は何らかの意味を与えられて、その経験をした個人の人生を形成する」ということを指し示しながら、同時に、そのようにすべての経験を(差別を受けることすらも)ポジティブに、建設的に、動員していけ、という命令として働きうるのではないか、と。

 

だからぼくはここで立ち止まって、傷が疼いてみっともなく絶望している自分を、拙速に美談に仕立て上げたりせず、じっくり舌の上で転がしたい。ルディの横に立って、両手を広げてボブ・ディランを歌う。叫ぶ。

 

はっきり見える もう1人の私が

この壁を超えた遥か向こうに

私の光がやって来るのが見える

西から東へ輝きながら

もうすぐ 今日にでも 私は解き放たれる

 

おわりに——美談にならないアレ

最近、保毛尾田保毛男や轟さん、淫夢ネタなどを見ても、あまり傷つかない自分にふと気付き、驚く。学生時代だったらものすごく傷ついていたはずです。「これでいいんだっけ?」と思います。それらは差別であって、問題があるから批判されてきたのだけれど、一方で、それらを見飽きるほど、見慣れてしまうほどにそういったものを見てきているのではないだろうか*2

 

見慣れてしまった差別や偏見が、街中に、電車の中に、あちこちに潜んでいる。そいつに遭遇しそうになると、身体にこびりついたアレがそわそわし始める。<経験>にならないアレ。脊髄反射で身構える。グッと身体に力が入る。差別を受け(続け)るということは、端的に言ってこういうことであって、美談に仕立てあげられるような代物ではない。少なくともぼくはそう思います。

 

「轟さんはゲイじゃない。ただ筋肉が好きなだけ」などという詭弁は、このような現実を捉えられていない。淫夢ネタで戯れるひとびとは、このような文脈というものを尽く軽視している。

 

表現の自由は、差別をしていい自由にはならない。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

差別を受けることは、<経験>にはならない。しなくてよい。

 

Any Day Now (Original Motion Picture Soundtrack)

*1:何らかの差別を受けて、そのことで何かを得たというひともなかにはいるでしょう。

*2:その点、若いひとたちは見慣れていないわけで、このようなものを見て深く傷つくだろう。

昨今のTwitterワールドへの違和感

この世には、自分の好きなものや自分の発した言葉・表現について、批判や指摘されることを一切受け入れない、という立場がある。それが表現の自由の行使だというのだ。問題のある表現だと批判されたり、被差別者の立場から「やめてくれ」とクレイム申し立てがあったりすると、不当に自由が侵害されたと憤怒する。被害者意識が炸裂する。
 
そこでは、提起された問題の持つ文脈や歴史というものは無視され、重箱の隅をつついたり茶化したりするのみで、他者はクレーマーとしてしか見なされず、そうして限られた仲間内だけで「いいね」を押し合っている。
 
約半年前、そのような立場のひとと言い争ったことがある。
 
あれはレアケースだと思っていたが、実はそうではない、Twitterでほかにもいくつかの例を観測することができた。ぼくの大好きなニチアサや、とあるアイドルグループのオタクたち(の一部)にもそういう傾向は見られる。「◯◯を好きなひともいるんだから、それについて批判するのはやめて」などという主張が存在するのだ。驚くしかない。
 
ぼくには彼らのメンタリティが理解できない。
 
たしかに自分が好きなものや、頑張って考えた持論を批判・指摘されると、「なにくそ!」と思う気持ちは分かる。でも、その「なにくそ!」は一旦脇に置かねばならない、とぼくは思う。脇に置いて、自分が好きなものや自分の表現が誰を踏みつけているのか、どんな影響を与えうるのか、何らかの差別や偏見を再生産してしまい得るのか、そういうことに思いを馳せなければならない。
 
こういうのって、ホントに基礎的なことだから、書くのも言うのも憚られる。でも、昨今のTwitterワールドを見ていると、このようなことを書いたり言ったりしなければならないような気になってくる。ぼくの自意識過剰だろうか。だったら良いのだが。
 
批判や指摘を一切受け入れないという立場は、ときに、その批判や指摘をしてくる立場のひとたちに対して露悪的な行動をとる。最近は、ネット上で受けたヘイトスピーチや誹謗中傷に対して、被害者が原告として裁判を起こすということも起きている。ぼくが半年前にとあるひとと言い争ったときも、彼やその取り巻きから誹謗中傷を受け、それはスクショして取ってある(裁判沙汰にするほどではないと、いまは思っているが)
 
Twitterは無法地帯ではない(もちろんはてなブログも)ルールもちゃんとある*1Twitter Japanが適切な措置を講じないのであれば、法的措置を取るしかないのだろうか。
 
多様性の時代である。価値観も多様だ。すべてのひとに受け入れられるのは難しいかもしれないが、批判や指摘を受け入れて、いろんな価値観に応えられるより強度の高いものへと改善していこうという風に考えられないものだろうか。
 

第7話 殺人遊戯

*1:ちゃんと運用されているかどうかという疑問はあるが