にげにげ日記

にげにげ日記

(元)不登校ゲイの思索

ショップの店員と「通販コント」をしてしまう。

おさむです。

 

暑い日が続きます。今年は美容に気をつけようと思っていて、人生で初めて日焼け止めを買ったり、ヒゲを整えるビアードオイルを使ってみたりしています。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

資本制v.s.美容

この超資本主義社会で、生産に寄与する行為(健康を維持するための運動や食事、勉強、自己啓発、再生産労働など)以外の行為ってなかなか評価されません。就活のためにサークル(のリーダー)やボランティアやバイトをやる、みたいな。

 

大学の教育学部にいたとき、生徒の「余暇指導」なんてものが存在することに驚きました。余暇くらい自由に過ごしたらいいのに、なんでそこまで学校が指導なんてする必要があるのか、と。「有意義な時間の過ごし方」なんて、なんでお前に決められなきゃいけないんだ、と。

 

人間は資本に奉仕するために生きているわけじゃない。だけど現状、ぼくらの人生のほとんどが資本制によって蝕まれてしまっている。それに対抗する概念のひとつとして「美容」があるんじゃないか、と最近は考えています。

 

(ラッシュ) LUSH Rose ローズ ギフトセット ショップバッグ付き

 

お前のオールを任せるな

人生のイニシアチブを、資本制から自分自身へと取り戻す。美容にはそんなパワーがある気がするのです。ファンデーションやチークを塗らなくても、日焼け止めを塗ったり保湿に気を使ってみたりアロマを焚いてみたり筋トレ*1をしたりするだけでもいい。それだけでもちょっと何か変わるんじゃないかなあ。

 

もちろんこんな小難しいことを考えずとも、自分のために時間を使ってリラックスしたりキレイになったりするのが楽しいっていうのは明白。ただ、これはぼくだけかもしれませんが(いや、「クィア・アイ」を見ていると、ぼくだけじゃない、かなりたくさんのひとがそうなんだと思う)自分のために何かをするって意外と難しい。なんか照れ臭いし、「そんなことをしている暇があったら◯◯しよう」と優先順位が下げられがち。

 

だから、あえて意識的に美容に気を遣ってみる。優先順位を上げてみる。そうすると、なんか「あ、いま自分を大切にできてるわ」みたいな、多幸感に満たされる感じがあります。

 

どんなわたしも愛してる

 

(ジョナサンの著書、早く読みたい〜)

 

ショップの店員と「通販コント」をしてしまう

で、そんな意識変革がありまして、こないだ某コスメショップに行ってきました。お目当ての商品はすでにネットで調べてあったので、それを買うために。

 

すると、ショップの店員が近づいてきます。「なにかお探しですかー?」と。で、「これこれを探してきました」「あー、そちら新商品になっておりまして。ネットとかで見られた感じですか?」みたいな応酬が続きます。

 

そのうち、「こちらの洗顔剤もいまおすすめでして、試しに使ってみませんか?」と言われて、水場に誘われる。洗顔剤を手にとって、もう片方の手に塗りつけて、水で洗い流す。「あ、なんかすごいすべすべに!」と、ぼく。「そう!そうなんですよ!◯◯が××で〜」と喋りだす店員。ものすごい意気投合したみたいな感じになってる。

 

で、急に冷静になります。「なんかこれ、通販コントやってるみたいじゃない?」と。結局、洗顔剤も買ってしまって、乳液も勧められたけどこちらはサンプルだけもらって帰りました。頑張った。

 

店員に声をかけられるとつい意気投合しちゃって、余計なものまで買ってしまいがち。

*1:筋トレに関しては、資本に寄与する身体をつくるっていう側面もあるから、ここでいう「美容」の範疇に入るか微妙なんだけど

「性的指向は(自分の意思で)変えられないのか」にマジレスします。

おさむです。

 

日本では、法律上の性別が同じ2人は結婚ができない。その違憲性を問う裁判が全国各地で行われていると聞いています。

 

www.marriageforall.jp

 

昨日(=8月5日)は、札幌地裁で、原告や証人への尋問が行われたらしいです。

 

news.yahoo.co.jp

 

原告や証人の証言は、どれも読んでいて身をつまされる思いです。一方で、裁判官からの質問に気になるものがありました。

 

尋問では、国側からの反対尋問はなかったが、Eさんやたかしさんに対して裁判官から同じ質問があった。それは「性的指向は(自分の意思で)変えられないのか」というものだ。

二人とも「自分の意思で変えられるものではなかった」という回答をしたが、この質問にはどのような意図があったのか。

弁護団の須田布美子弁護士は「その属性が『自分で選べるもの』なのか『選択の余地はないもの』なのかによって、差別に対する判断が厳しくなったり、ゆるくなったりと変わってきます。

裁判官が『性的指向は自分で選べるんじゃないの?』という見方でこの質問をしてきたのか、それとも人権問題として厳しく判断するために、あえて『セクシュアリティは自分で選べない』と原告に言わせようとして質問したのか、どういう意図だったのかは判決を見てみないとわかりません。しかし、この論点に関心があるということは伝わりました」

 

異性愛者こそが普通」という差別

性的指向は(自分の意思で)変えられないのか」と、原告のEさんやたかしさんに同じ質問があった。それに対してお二人は「自分の意思で変えられるものではなかった」と返答した。 

 

これを読んで、純粋に思いました。性的指向って、同性愛者だけじゃなくて異性愛者にもある両性愛者や全性愛者なども含めてすべてのひとにある)のに、それなのになぜマイノリティ(今回では同性愛者)だけが問われるのだろう、と。性的指向が自分の意思で変えられるのかどうか気になるんだったら、まずは自分に問うてみれば?

 

異性愛者こそが普通で、それ以外のセクシュアリティは”あえて”選んだものだ、だから変えられるものなんじゃないか、という見方をされているのだったら、これは差別です。

 

選べる/選べないは論点なのか

もちろん記事にあるように、先述したような差別というのではなくて、「人権問題として厳しく判断するために、あえて『セクシュアリティは自分で選べない』と原告に言わせようとして質問した」という意図があっての質問だった可能性もあります。

 

でも、それでも疑問が残ります。セクシュアリティを選べようが選べまいが、すべてのひとに人権はある。選べなかったから、責任がないから、かわいそうだから人権問題にしてあげるっていうのは、ものすごい上から目線でムカつく。

 

選んで同性愛者になったとしても、それが結婚する権利を認めない理由にはならないんじゃない?

 

セクシュアリティは変えられるの?

そもそも実際にセクシュアリティを変えられるのかどうか、ぼくには分かりません。多くのひとはEさんやたかしさんのように「自分の意思では変えられない」という実感があるのかもしれない(ぼくもあります)けれど、セクシュアリティを「選んだ」というひともいるし、ジェンダー・フルイド(流動的)なひともいる。

 

事実としてあるのは、ノンケがいつもそれを「問う側」で、LGBTがいつも「問われる側」である、ということ。その重さ。

 

いままで、ぼくたちゲイは繰り返し繰り返し問われつづけてきた。「なぜゲイになったのか」「いつからゲイだと気づきだしたのか」「親はどんな人なのか」……。問いかけてくる当人は、たんなる無邪気な好奇心から聞いているつもりなのだろう。だが、これらの質問は、自分の側が問われることはないとわかっているからこそできる質問である。自らの優位性にアグラをかいたうえでの問いである。逆に問われたら、異性愛者には返す答えがない。自らのセクシュアリティについて語る言葉がない。つまり何も考えていないのだ。(平野広朗『アンチ・ヘテロセクシズム』1994年、パンドラ、p.20)
 
だからこそ、言いたい。まずは自分に問うてみれば?
 
他方で、セクシュアリティを「変えられる、治療できる」という立場から、コンバージョン・セラピーなる治療(というか拷問)がこれまで行われてきた歴史があります。
 

www.huffingtonpost.jp

 

セクシュアリティは変えられるのかどうか、本当のところはわからない*1けれど、このような社会情勢や歴史を踏まえ、「自分の意思で変えられるものではない」と主張していく必要性があるのかもしれません。

 

おわりに——事件は裁判所(だけ)で起きてるんじゃない。

考えすぎかもしれませんが、こんな記事を書くと、こういうクソリプが飛んできそうだなと思ってしまいます。

 

「これは尋問なんだから、質問されるのは当たり前だろう」、と。

 

でも、違うんです。ぼくらは(という主語でいいのかわかんないけど)尋問の場だけじゃなくて、さまざまな場所で裁判官が問うたことと同じような含意を持つ言葉を突きつけられている。

 

「一時的な気の迷いなんじゃないの?」

「思春期特有のものでしょう」

「結婚すれば/異性とセックスしてみれば治るんでしょう」

「本当の恋愛をしらないだけでしょう」

 

こんな言説と日常的に接している。特に未成年の時期は。だから、原告のEさんやたかしさんがこの質問をされたときにどんな気持ちだっただろうかと思うと、ホントに身がつまされる。

 

裁判官の質問の意図はわかりません。いずれにしても、上記のような差別的な問いがなくなって、そしていつか差別が是正される日が来ることを願ってこの記事を締めます。

 

ボーン・ディス・ウェイ (スペシャル・エディション(2CD))

*1:とはいえ、少なくとも自由自在に変えられるとは思えない

ハロプロに興味を持ち始めた——テンプレv.s.ぼく

おさむです。

 

なんだかここ最近はブログ執筆のモチベーションが高くて、これで5日連続更新。ブログ開設当初の熱量を思い出します。なんか書きたいことがどんどん溢れてくる。

 

さて、今日の本題なのですが、いまハロプロに興味を持っています。といっても、いまのハロプロというよりかは(いまのハロプロもこれからチェックしていきたいと考えています)、ぼくが子どもの頃にいわゆる「黄金期」を迎えていた、2000年前後のモーニング娘。のパフォーマンスをひたすらYoutubeで見ています。

 

ザ☆ピ~ス!

 

そんで10年前くらいに「黄金期」のメンバーを中心に結成された「ドリームモーニング娘。」のパフォーマンスも見てみて、感動して、1日中見ていると言っても過言ではないくらい。本当に素晴らしいんです。みんなオーラが溢れてる。

 

 

で、ちょっと冷静になって考えました。「あれ、これめっちゃテンプレのゲイじゃね…?」と。

 

テンプレのゲイってなに?

withnews.jp

 

こちらの記事を参考にすると、テンプレのゲイとは、主に見た目に関してですが、短髪・ヒゲ・ガチムチ・Tシャツ短パンとのこと。異論ありません。そうじゃないゲイもたくさんいるけれど、「見た目で判別しやすい」という有徴性の観点も含め、「こういうのがテンプレとされているよなあ」って思います。

 

作られる/要請されるテンプレ

ぼくはというと、坊主頭・ヒゲ・ガチムチ(というよりかはデブ)・Tシャツ短パンと、見た目においてはもうしっかり(ギリギリ?)テンプレの範疇。以前は坊主頭のひともヒゲを生やしているひとも不衛生というか、なんか汚らしいなあと思っていましたが、いざ自分がなってみるとむしろ好きになりました。そんなもんなのかもね。

 

千葉 僕はけっこう自分がなりたいタイプの相手とやりたいんです。でも全然違う人もいるじゃないですか。

宇田川 僕は逆のタイプが好きなんですよ。細い子が好きなんです。ただ、圧倒的に同類が好きな人が多いですよね。

千葉 同類が好きというのは同性愛の秘密だと思いますね。

宇田川 つまり同性が好きっていう構造と同類が好きっていうのは同じ。

(「《インタビュー》哲学者 千葉雅也 俺たちは革命分子だ!」『Over vol.02』2020年、オーバーマガジン社、p.148)

 

こうやって、ラカンの「欲望の三角形」みたいなのも相まって、テンプレというのは形作られていくんじゃないかなあ。「出会い」のマーケットの論理として考えてみると、共通項があるほうが仲良くなりやすいわけだし、テンプレは要請されているとも言えるんじゃないかしら。

 

でも、見た目がゲイっぽいのはある程度受け入れていたけれど、中身までテンプレ化するというのは、なんか葛藤があるんです。

 

テンプレv.s.ぼく

ぼくがいまハロプロを好きなのは、ゲイだからなのか。それとも無関係なのか。見た目に関してと同様に、すべてのゲイがハロプロ好きではないのは承知ですが、アプリのプロフィールを見たり、ゲイバーで喋っていたりするとやっぱりハロプロ好きは多いなあという印象があります。

 

中身までテンプレ化してしまうというのは、なにか侵食されているような感じがして嫌だ。けど、考えてみればぼくらはみな借り物の継ぎ合わせでできているわけで、実は大した問題じゃない、というか仕方ないのかも。

 

千葉 […]精神分析的に考えると、一人ひとりが純粋に個性的に生きることって不可能なんですよ。必ず外側に用意されている一定のタイプとか、ある種のモデルを参照することで、そのモデルの若干ずれたバージョンとして自分自身を作り上げていくわけで。

(同上、p.137)

 

とはいえ、やっぱりテンプレ化していく葛藤というか、怖さみたいなのがある。「量産型◯◯」への嫌悪感と根っこは同じかもしれません。個性的でありたい、というのではなくて、全体主義的なものに侵食される怖さみたいな。大袈裟にいうと、「内心の自由」を侵害されているようにさえ感じる(笑)。

 

うーん、よく分からなくなってきた。ちょっと経過観察してみます。

できない側から見る、Twitterで「出会う」方法

おさむです。

 

先日、こちらの記事を読んで深く共感しました。

 

t.co

 

ぼくもTwitterやブログで社会批判も政治批判も個人の主張への批判もガンガンしているし、そういう意味で「近寄りがたい」と思われているんだろうなあ、と。たぶんリラコさん(先の記事の著者)よりずっとひどいよね。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

(こちらの記事、投稿してからもうすぐ半年らしいです)

 

Twitterやブログだと、テキスト情報しかないから過激なひとだと映りやすいんだろう。でも実際に会ってみると、声音や雰囲気などいろんな情報もあるからもっとマイルドに映るんじゃないかと思う*1

 

アカウントの使い分けと「あざとさ」

先の記事では、それでは発信用のアカウントと出会い用のアカウント(「ホモ垢」)とを分けて運用したほうがいいんじゃないか、と考えたと書いてある。

 

なるほど、その手があったかと思う反面、それをやれるほどの器用さがぼくにはないし、またそれほど「あざとく」運用していける自信もない。顔写真を出して、身長と体重と年齢の数値を載っけて、作った料理や遊んだ友人との写真を投稿するだけのアカウントなんて、なんか想像しただけで身体がムズムズしてきてたまらないのだ(もちろんそういうことをやっているひとを批判する意図はまったくない。むしろ羨ましいくらい)

 

超効率的・超合理的な出会いの場として利用されるTwitter。そのマーケットに参入するのはものすごくハードルが高く感じる。なんか就活してるみたいだ。ノイジーなものを排除して、「出会い」に有利になるように生活が、人生が合理化させられていくような。そういう感じを受ける。資本主義って感じ。

 

それだったらもういっそ出会い系アプリで友達を探すほうがずっといい*2Twitterは言論空間だと割り切って、出会いの場としての機能はスッパリ切ってしまう。そういうやり方もあるだろう。

 

できない側から見る、Twitterで「出会う」方法

そうやって考えてみると、みなさんはもうお分かりだろうが、Twitterで「出会う」ために行うべきツイートや、控えるべき行動というものが分かってくる。

 

先の記事と重複する部分があるが、ぼくの体験をもとにして改めてまとめてみる(先に断っておくが、ぼくは「わかっちゃいるけどやめられない」)

 

  • 政治系・社会批判のツイートをしない(過激なひとだと思われるため)
  • 食べたものや作った料理などの画像は積極的に貼る(美味しそうに食事するひとはいいひと理論)
  • 友達と遊んだら集合写真を貼る(人気者だと思われたら勝ち。欲望の三角形)
  • 新しい洋服やトレーニング中の写真など、自分の外見が分かる画像を投稿する(そして知らない誰かに保存される、たぶん)

 

一言でいえば、付き合いやすそうな・接しやすそうなひとを演出しろってことかしら。

 

まあ、こういう記事を書くこと自体がある種の社会批判であって、こうやって近寄り難さを増幅させているということもわかってるんだけどね…。書かずにはいられない。

 

スイスイスーダララッタスラスラスイスイスイ〜

 

スーダラ節

*1:ぼくとしては過激でもマイルドでもどっちでもいいんだけど

*2:ほとんどの出会い系アプリには「発信」の機能がないし、言論空間としては機能していないから割り切れるということ

またまた内見へ行ってきました——伝えるとか伝えなくていいとか

おさむです。

 

先々月くらいから、同性の恋人と同棲のための部屋探しをしているのですが、駅前とかにある不動産屋を回るたびに、こんなやりとりが生じます。

 

不動産屋のひと「お友達ですか?」

ぼくたち「いえ、カップルです」

不動産屋のひと「え?」

ぼくたち「恋人なんです」

不動産屋のひと「あぁ(目を瞑る)

 

「あぁ」としか言いようがないよな〜なんて思って、これはもう仕方がないと諦めていました。業務上、どうしても聞かなきゃいけないよね、と。

 

でも、LGBTのための不動産屋があることを知って、いま相談している最中なのですが、このやりとりがないだけで意外とかなりストレスフリーなんだなということに気づかされます。

 

思い返せば、これまで内見へ行くにしても、不動産屋のひとの目線を気にして恋人とのコミュニケーションがぎこちなくなったりしていました。あれもストレスだったんだなあ。

 

伝えるとか伝えなくていいとか

ほかの国がどうだかわからないけれど、日本社会においては、「言葉にせずとも相手に分かってもらえる」ということに価値が置かれている気がする。阿吽の呼吸、以心伝心。わざわざ言葉にしてしまうのは野暮というか、なんかそんな感じ。

 

それに対して、「ちゃんと言葉で伝えよう」と主張するひとたちがいる。例えば、性交渉において同意を得ることの大事さを説いたりとか。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

ほかにも、例えば社会学者の岸政彦は、雨宮まみとの雑談本のなかでこんな風に言っている。

 

言葉で言わないと通じないというのはすごく大事なことなんだけど、とくに親密な領域ではお互いに言わなくなるでしょう。たとえば夫婦、家族関係や恋愛関係だと、言わんでもわかってくれる、という変な感覚というか信仰がある。

[…]

男性だととくに「俺のことわかってくれんだよ、あいつは」みたいになっちゃうんですよ。で、知らないうちに関係が壊れていく。

雨宮まみ・岸政彦『愛と欲望の雑談』2016年、ミシマ社、p.9)

 

ぼくもパートナーシップや友達関係のなかで、できるだけ言葉にして伝え合うということを大事にしたいと考えています。それができているかどうかは自信ないけれど、できるだけ意識的にコミュニケーションしているつもり。

 

「ちゃんと言葉にして伝えよう」の非対称性

で、それで、ここからが問題なんですけど、「ちゃんと言葉にして伝えよう」ということが重要なのは大前提として、他方で、言語化して伝えることの労力ということを考えると、マジョリティ/マイノリティ間で非対称性があるんですよね、現実として。

 

マジョリティ側が透明化されて、自分について語る言葉を持たない(持つ必要がない)のに対して、マイノリティ側は有徴化されて、ゲイだクィアだなんだと名指されて、自分が何であるのか説明を求められる。ぜんぜん平等じゃない。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

ここで記事の冒頭に戻るんですが、当事者同士だとこの不平等がない=言葉にせずとも分かり合える部分があるから、すごい楽なんですよね。「ちゃんと言葉にして伝え」なくても大丈夫、という安心感。

 

もちろん当事者同士といったって、まったく同じひとはいないわけで、生活環境や経済状況や障害の有無やなんやで差や違いはできてくるから、なんらかの説明が必要な場面はできてくるわけですが。

 

「ちゃんと言葉にして伝えよう」には賛同したい一方で、説明を求められ続けるマイノリティの立場として、言葉にせずとも分かり合えるということの心地よさをどうしても手放せずにいます。ジレンマ。

 

はあー、内見に行ったお部屋、審査通るといいな。

 

愛と欲望の雑談 (コーヒーと一冊)