にげにげ日記

にげにげ日記

(元)不登校ゲイの思索

昨今のTwitterワールドへの違和感

この世には、自分の好きなものや自分の発した言葉・表現について、批判や指摘されることを一切受け入れない、という立場がある。それが表現の自由の行使だというのだ。問題のある表現だと批判されたり、被差別者の立場から「やめてくれ」とクレイム申し立てがあったりすると、不当に自由が侵害されたと憤怒する。被害者意識が炸裂する。
 
そこでは、提起された問題の持つ文脈や歴史というものは無視され、重箱の隅をつついたり茶化したりするのみで、他者はクレーマーとしてしか見なされず、そうして限られた仲間内だけで「いいね」を押し合っている。
 
約半年前、そのような立場のひとと言い争ったことがある。
 
あれはレアケースだと思っていたが、実はそうではない、Twitterでほかにもいくつかの例を観測することができた。ぼくの大好きなニチアサや、とあるアイドルグループのオタクたち(の一部)にもそういう傾向は見られる。「◯◯を好きなひともいるんだから、それについて批判するのはやめて」などという主張が存在するのだ。驚くしかない。
 
ぼくには彼らのメンタリティが理解できない。
 
たしかに自分が好きなものや、頑張って考えた持論を批判・指摘されると、「なにくそ!」と思う気持ちは分かる。でも、その「なにくそ!」は一旦脇に置かねばならない、とぼくは思う。脇に置いて、自分が好きなものや自分の表現が誰を踏みつけているのか、どんな影響を与えうるのか、何らかの差別や偏見を再生産してしまい得るのか、そういうことに思いを馳せなければならない。
 
こういうのって、ホントに基礎的なことだから、書くのも言うのも憚られる。でも、昨今のTwitterワールドを見ていると、このようなことを書いたり言ったりしなければならないような気になってくる。ぼくの自意識過剰だろうか。だったら良いのだが。
 
批判や指摘を一切受け入れないという立場は、ときに、その批判や指摘をしてくる立場のひとたちに対して露悪的な行動をとる。最近は、ネット上で受けたヘイトスピーチや誹謗中傷に対して、被害者が原告として裁判を起こすということも起きている。ぼくが半年前にとあるひとと言い争ったときも、彼やその取り巻きから誹謗中傷を受け、それはスクショして取ってある(裁判沙汰にするほどではないと、いまは思っているが)
 
Twitterは無法地帯ではない(もちろんはてなブログも)ルールもちゃんとある*1Twitter Japanが適切な措置を講じないのであれば、法的措置を取るしかないのだろうか。
 
多様性の時代である。価値観も多様だ。すべてのひとに受け入れられるのは難しいかもしれないが、批判や指摘を受け入れて、いろんな価値観に応えられるより強度の高いものへと改善していこうという風に考えられないものだろうか。
 

第7話 殺人遊戯

*1:ちゃんと運用されているかどうかという疑問はあるが