にげにげ日記

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(元)不登校ゲイの思索

異性愛者はカミングアウトなんてしない。

おさむです。

 

先日、Twitter上で話題になった下記の件について、考えたことをまとめておきます。

 

 

問題の概要——「カミングアウト禁止」?

記事では、同性愛者や両性愛者など「性的指向」に関するカミングアウトについて、人事担当者が留意すべき3つのこととして、以下の3点を挙げています。

 

  1. 会社としての方針を定めておくこと
  2. 当事者本人の希望(意思)を確認すること
  3. 当事者を腫れ物扱いしないよう配慮すること

 

ここまではなんとなく分かる。しかし、その後の記述が問題となりました。「1.会社としての方針を定めておくこと」について、例えば、面接のときやエントリーシート上で当事者がカミングアウトをしてくることを想定して、会社としての方針を定めるように記事は促しています。ここでは、その方針の選択肢として3つ挙げられています。

 

  • 職場でカミングアウトすることは問題ない
  • 職場でカミングアウトすることは問題ないが、あくまでも自己責任
  • 職場でカミングアウトすることは原則的に認めない

 

3点目の「原則的に認めない」が注目されて、問題となりました。「異性愛者は職場で恋愛や家族の話をしているのに、なぜ同性愛者や両性愛者はダメなんだ」と。

 

異性愛者はカミングアウトしているのに」

大まかな問題意識は共有していると思うのですが、ただちょっと気になることがありました。「原則的に認めない」との記述に対する反論として、「異性愛者はカミングアウトしているのに」とか「じゃあ異性愛者もカミングアウト禁止で」とかいうものがいくつか見られたのです。

 

言いたいことは分かります。同性愛者や両性愛者と異性愛者とを対置させて、「なんでそっちはいいのに、こっちはダメなんだよ」と。でも、ここで「カミングアウト」という言葉を使うことで見えなくなっている構造があるように思うのです。

 

異性愛者は、カミングアウトなんてしません。する必要がない。異性愛であることはフツウなことで、わざわざ公表したりリスクを負って発言したりすることはありません。一方で、同性愛者や両性愛者はカミングアウトしないと「いないこと」にされます。異性愛者と見なされる。そして差別や偏見があるために、カミングアウトは困難でリスキーなものであって、少なくない当事者が異性愛者を装って過ごすことになっています。

 

つまり、異性愛中心主義のこの社会が、カミングアウトの負担とそのリスクをこちら側(だけ)に押し付けている。同性愛者や両性愛者だけがこの負担とリスクを負わされていて、一方で異性愛者は負わずに済んでいる。「当たり前じゃん」と思われるかもしれませんが、そうでしょうか?

 

ぼくらはカミングアウトを押し付けられている

セクシュアリティに関して平等な社会とはどんな社会だろうかとたまに考えます。例えば、カミングアウトしなくても安全な環境にいられて、自分に合った制度を利用することができて、カミングアウトをしたとしても攻撃に晒されたりしない社会とかどうでしょうか。そういう社会もあり得るのだと考えると、同性愛者や両性愛者だけがカミングアウトの負担やリスクを負わされることが「当たり前」ではないように思えてきます。

 

でも、現状は違います。先に書いたように、この社会では、カミングアウトの負担とそのリスクをこちら側(だけ)に押し付けられています。そんな社会では、異性愛者は、同性愛者や両性愛者が体験するような「カミングアウト」を体験することは絶対にできません。そこには大きな溝がある。この非対称な構造をしっかり捉えなくてはいけない。

 

このような異性愛中心主義の社会を作り、再生産しているのがマジョリティ=異性愛者だとすれば*1、その上、同性愛者や両性愛者のカミングアウトを認めるかどうかの裁量を持つよう推奨するなんて、意味がわからない。許せるわけがない。だからこの記述は問題なんだとぼくは思います。

 

おわりに——カミングアウトは自由だ

高校生のとき、ぼくは全校生徒の前でカミングアウトをしました。表彰式の場を利用して、Tシャツに「私はゲイです」と書いて登壇しました。先生や同級生は、そのやり方を非難しました。「あのやり方はどうかと思う」と。当時のぼくはそれを間に受けて反省していましたが、いまとなってはおかしいと思います。

 

異性愛者には、カミングアウトを認めるか認めないかとか、そのやり方がどうだとか非難する権利はないと思います。それより先にまず、異性愛中心主義を作り、再生産している自分たちの足元をよく見てみてほしい。自分たちが何を踏みつけているのか。

 

踏みつけておきながら、踏まれた側が「おい、足をどけろよ」と言ったのに対して、「なんだその言い方は」と返すのは、いわゆるトーン・ポリシングでしょう。「足をどけて」と言わなきゃいけないのは、踏まれているからです。そもそも踏まれていなければ、何も言わなくていい。踏みつけておきながら、「足をどけて」という声を認めるか認めないかを決める権限を持つよう推奨するのはおかしい*2

 

異性愛者はいいのに、なぜ同性愛者はダメなのか」と比較してしまうのはちょっとズレているような気がしています。ここで問うべきは「非対称で差別的な構造を作っておきながら、その上どうしてカミングアウトを認める/自己責任だ/認めないなどという上から目線に立てるのか(そのように推奨する記事が書けるのか)」ということなのかなあと、ぼくは思いました。おわり。

 

カートの告白

*1:マイノリティの側も再生産に寄与しているってこともよくあることですが

*2:こういうマジョリティの傲慢さみたいなのを顕在化させたという見方もあるかも、と思いました。