にげにげ日記

にげにげ日記

(元)不登校ゲイの思索

ハロプロに興味を持ち始めた——テンプレv.s.ぼく

おさむです。

 

なんだかここ最近はブログ執筆のモチベーションが高くて、これで5日連続更新。ブログ開設当初の熱量を思い出します。なんか書きたいことがどんどん溢れてくる。

 

さて、今日の本題なのですが、いまハロプロに興味を持っています。といっても、いまのハロプロというよりかは(いまのハロプロもこれからチェックしていきたいと考えています)、ぼくが子どもの頃にいわゆる「黄金期」を迎えていた、2000年前後のモーニング娘。のパフォーマンスをひたすらYoutubeで見ています。

 

ザ☆ピ~ス!

 

そんで10年前くらいに「黄金期」のメンバーを中心に結成された「ドリームモーニング娘。」のパフォーマンスも見てみて、感動して、1日中見ていると言っても過言ではないくらい。本当に素晴らしいんです。みんなオーラが溢れてる。

 

 

で、ちょっと冷静になって考えました。「あれ、これめっちゃテンプレのゲイじゃね…?」と。

 

テンプレのゲイってなに?

withnews.jp

 

こちらの記事を参考にすると、テンプレのゲイとは、主に見た目に関してですが、短髪・ヒゲ・ガチムチ・Tシャツ短パンとのこと。異論ありません。そうじゃないゲイもたくさんいるけれど、「見た目で判別しやすい」という有徴性の観点も含め、「こういうのがテンプレとされているよなあ」って思います。

 

作られる/要請されるテンプレ

ぼくはというと、坊主頭・ヒゲ・ガチムチ(というよりかはデブ)・Tシャツ短パンと、見た目においてはもうしっかり(ギリギリ?)テンプレの範疇。以前は坊主頭のひともヒゲを生やしているひとも不衛生というか、なんか汚らしいなあと思っていましたが、いざ自分がなってみるとむしろ好きになりました。そんなもんなのかもね。

 

千葉 僕はけっこう自分がなりたいタイプの相手とやりたいんです。でも全然違う人もいるじゃないですか。

宇田川 僕は逆のタイプが好きなんですよ。細い子が好きなんです。ただ、圧倒的に同類が好きな人が多いですよね。

千葉 同類が好きというのは同性愛の秘密だと思いますね。

宇田川 つまり同性が好きっていう構造と同類が好きっていうのは同じ。

(「《インタビュー》哲学者 千葉雅也 俺たちは革命分子だ!」『Over vol.02』2020年、オーバーマガジン社、p.148)

 

こうやって、ラカンの「欲望の三角形」みたいなのも相まって、テンプレというのは形作られていくんじゃないかなあ。「出会い」のマーケットの論理として考えてみると、共通項があるほうが仲良くなりやすいわけだし、テンプレは要請されているとも言えるんじゃないかしら。

 

でも、見た目がゲイっぽいのはある程度受け入れていたけれど、中身までテンプレ化するというのは、なんか葛藤があるんです。

 

テンプレv.s.ぼく

ぼくがいまハロプロを好きなのは、ゲイだからなのか。それとも無関係なのか。見た目に関してと同様に、すべてのゲイがハロプロ好きではないのは承知ですが、アプリのプロフィールを見たり、ゲイバーで喋っていたりするとやっぱりハロプロ好きは多いなあという印象があります。

 

中身までテンプレ化してしまうというのは、なにか侵食されているような感じがして嫌だ。けど、考えてみればぼくらはみな借り物の継ぎ合わせでできているわけで、実は大した問題じゃない、というか仕方ないのかも。

 

千葉 […]精神分析的に考えると、一人ひとりが純粋に個性的に生きることって不可能なんですよ。必ず外側に用意されている一定のタイプとか、ある種のモデルを参照することで、そのモデルの若干ずれたバージョンとして自分自身を作り上げていくわけで。

(同上、p.137)

 

とはいえ、やっぱりテンプレ化していく葛藤というか、怖さみたいなのがある。「量産型◯◯」への嫌悪感と根っこは同じかもしれません。個性的でありたい、というのではなくて、全体主義的なものに侵食される怖さみたいな。大袈裟にいうと、「内心の自由」を侵害されているようにさえ感じる(笑)。

 

うーん、よく分からなくなってきた。ちょっと経過観察してみます。