先日は、「国際男性デー」だったらしい。
11月19日は男性の健康に目を向け、ジェンダー(社会的性差)に目を向ける「国際男性デー」。海外では記念日として祝う国があるが、日本ではまだ知名度が低い。この日を契機として「一家の大黒柱であらねばならない」といった考え方による男性の生きづらさを考えようという動きが出てきた。
ということで、今回は、ちょうどたまたま読んでいた太田啓子『これからの男の子たちへ』という、2人の男児を育てるシングルマザーの弁護士の方が、これからの時代を生きる男の子をどう育てていくかという視点で書かれた本を取り上げて、男性の生きづらさや「有害な男らしさ」について考えてみたい。これ、とっても読みやすくておもしろい本だった。
「男性の生きづらさ」の話しづらさ
男性の生きづらさって、ちょっと話しづらい感じがある。話すための語彙や概念を獲得できていない(正確には、いくつか語彙や概念は発明されてきているんだけれど、まだまだ人口に膾炙していない)っていうこともあるだろうし、女性を抑圧・差別している構造に自然と乗っかってしまっているわけだから、まず自分の立場性や加害性について反省する必要があるし、いざ話すとしても、そのための場やタイミングがなかなか見つけられないっていうこともあるんじゃないかと思う。
しかし、だとしても、例えば女性の生きづらさについて話している場やタイミングで、「男だって生きづらいんだ!」と逆ギレのようにして問題提起しようとしたり、#Metooや#Kutooをはじめ、他者のクレイム申し立てを茶化したり、そのひとたちの口を塞ごうとしてしまったりするのはよくない。
そうならないためには、「男性の生きづらさ」をテーマにしたグループもいくつかあるようなので、そういうところへ行って話したり、マイノリティのリソースを簒奪しないように配慮したうえで話したりする必要があるんじゃないだろうか。
有害な男らしさ
さて、国際男性デーでは、男らしさ(男性性)を問い直すような試みがなされていると言える。太田啓子『これからの男の子たちへ』にも書かれているように、男らしさは、自分自身を鼓舞したり勇気を出したりといったポジティブな効果をもたらす一方で、自分の感情と向き合えなかったり、それをうまく言語化できなかったり、さらには女性をモノとして扱ったりしてしまうといったネガティブな効果もある。これを「有害な男らしさ(Toxic Masculinity)」という。
大学生のとき、ある教授が、自殺者や殺害事件に関するデータを示して、「男性は、死にやすく、殺しやすく、殺されやすい」と言っていたのを思い出す。これも「有害な男らしさ」が何らかのかたちで影響しているんじゃないだろうか。重要なのは、男v.s.女の構造で考えるのではなく、「男らしさ」を巡る権力闘争が、一部の男性にとっては特権を与え、それ以外の男性や女性やマイノリティを下位に押しやっているという構造を見ることなんじゃないかと思う。
ゲイと「男らしさ」
ところで、男らしさ、というと、「ああ、ノンケ男性の問題ね」と思ってしまうところがないだろうか。ぼくを含め、少なくないゲイが、「男らしくない」としていじめやからかいの対象になった経験があると聞くし、「男らしさが問題になるのって、特に女性との関係においてでしょ」みたいに思ってしまうこともあるんじゃないだろうか。でも、そうじゃないと思う。ゲイにとっても男らしさとの付き合い方って当事者性の高い問題だ。
太田啓子『これからの男の子たちへ』を読んでいて何度も考えたのは、ぼくと彼氏との関係。男性同士なので、ジェンダーにおける不均衡は生じないけれど、だからって男らしさの問題と無縁ではない。例えば、日常的に会話をするとき。どちらもまあまあ口数は多いけれど、自分自身のことになるとあまり話したがらない傾向が、お互いにあると思う。弱い部分を見せられない、というか。これって、まさに男らしさというものが、弱音を吐かないとか、強くあるべきだ、という毒を持っているということだと思う。
弱い部分や、苦手なこと、しんどいと思うこと、大変なことなどを共有できない人間関係って、ときにしんどい。だからこういったところも彼氏と共有できたらいいなと思っている。そのためにも、男らしさとの付き合い方を見直したい。
男性特権をうまく利用して、性暴力やセクハラと向き合う
太田啓子『これからの男の子たちへ』では、世の中の男の子たちへ伝えたいこととして、以下の2つを挙げている*1。
- 「男らしさ」の呪いから自由に生きてほしいこと
- 「男性であることの特権」に自覚的になって、性差別や性暴力を許さない、と、男性だからこそ声をあげてほしいということ
1についてはもう書いたので、今度は2について触れてみたい。これは、ぼくにとって今後の大きな課題だなと思っている。何とかして取り組みたい課題。いざ目の前で、性暴力やセクハラが起きたときに、どのように振る舞うことができるか。ぼくたちは問われていると思う。
以前、友人たちと話し合ったときは、例えば飲み会の席でセクハラが行われた場合、飲み物を床にぶちまけるなどして全体の気を逸らして、その間にセクハラ被害を受けているひとをハラッサーから遠ざける、などの案が出た。これは比較的やりやすい方法なんじゃないかと思う。その他にも、本書では、痴漢を見つけたときにどう対処できるかということについても言及してある。
性暴力やセクハラを行わない、手を貸さない、見逃さないためにできることはないか、考えていきたいし、ちゃんと実践できるようにシミュレーションしておきたい。特権って、なにがなんでも手放さなきゃいけないものだと思っていたけれど、それだけじゃなくて、特権があることに自覚的になって、それをうまく利用して、問題に介入することだってできるんだというのは、大きな発見だった。
おわりに
とてもおもしろい本だった。今回は触れられなかったが、小学校教諭の星野俊樹さんとの対談で、小学校における性教育の授業実践の話や、社会公正教育のアクティビティ、宮地尚子の「環状島」の話などが出てきていて、どれも非常に興味深かった。
ゲイということもあってか、社会の再生産に寄与する実感がほとんどない*2のだが、ぼくらの姿や行動を見て、男らしさについて学習する子どもがどこかにいるのかもしれないと思うと、なにか責任感のようなものをちょっとだけ覚えた。
男らしさを見つめ直し、毒を抜いていき、性暴力やセクハラを許さないという姿勢をしっかり持っていきたい。