にげにげ日記

にげにげ日記

(元)不登校ゲイの思索

「もう頑張るのやめませんか?」いいね!よし、やめよう!

「もう頑張るのやめませんか?」という言説があるらしい。へえ、いいことじゃんと思う。ぼくからすると、みんなまだまだものすごく頑張っているように見えるけれど、頑張らなくていい社会を目指していくのはとてもいいことだと思う。ガンバリズムがあちこちに染み込んだいまの日本社会とはさっさとおさらばしたいね。

 

頑張れるかどうかを、みんなの意識の問題にするのがいわゆる自己啓発っていうやつ。でも、実際にはどうなんだろうか。上野千鶴子は、著書『サヨナラ、学校化社会』のなかで、このようなことを言っている。学校とは、すべてのひとに機会の平等をもたらすものだと考えられているが、実際には、社会の不平等を「個人の努力不足」に置き換える装置だと。

 

例えば、親の所得と子どもの高校卒業後の進路は密接な関連があると言われている。東京大学の学生の親の世帯年収は、54.8%が年収950万円以上だ。裕福な親のもとに生まれれば、高学歴を得られる可能性が高い。この背景には、日本の教育投資の乏しさが問題としてある。しかし、学校では、高学歴を得られるかどうかはあなたの頑張り次第、ということになる。

 

gentosha-go.com

 

同じようなことを、2年前に話題になった、上野千鶴子による東京大学学部入学式の祝辞で言っている。

 

 あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

 

www.u-tokyo.ac.jp

 

頑張れるひとやガンバリズムをしっかり内面化したひとからすると、「もう頑張るのやめませんか?」的な言説は受け入れがたいだろう。でも、だからといってガンバリズムが「正しい」わけではないことは、上述した通り。それは社会の不平等を不可視化させ、自己責任論の強化につながりやすい。

 

じゃあどうすればいいか。社会構造を変えるしかない。本当の意味で頑張らなくても生きていける社会をつくっていく。

 

「無理して学校に通わなくてもいいよ」という言説が無責任だと感じるのであれば、学校以外の居場所や教育の機会を拡張したり、資本主義や能力主義、学歴主義を相対化したりしていく必要がある。言説を云々するだけでは不十分だし、逆張りで「無理してでも学校には通ったほうがいい」と言うのだって同様に無責任だ。本当の意味で「無理して学校に通わなくてもいいよ」と言えるようになるために、社会を変えていかなくちゃいけない。

 

そうじゃなかったら、たとえ「学校に行けるひとは行ったほうがいい」などという"中立的な"言い方をしたとしても、それは単なる自己責任論に成り下がってしまうおそれがある。

 

サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)

サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)

 

 

サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)