おさむです。
大学のセクマイサークルの運営などをやっていた頃、他大学のサークルと合同で、100人規模で交流会をやることがありました。
その際、いろんなセクシュアリティ・ジェンダーのひとが来ていたのですが、脇のほうから見ていると、「ゲイはゲイばっかり、レズビアンはレズビアンばっかり、トランスはトランスばっかり」と、同じセクシュアリティのひと同士で固まってしまっている様子が見られました*1。
なかでもゲイの集団は、ずっとそこだけで固まったまま終始しているようでした。
せっかくいろんなセクシュアリティのひとがいるのに、固まってしまうのはもったいないのではないか? とモヤモヤしていました。
今回は、ゲイの凝集性について考えてみます。
- なぜゲイだけで集まるのか
- ほかのセクシュアリティとの交流は大切なこと?
- 大切な理由①ぼくらはずっと一緒にやってきたから
- 大切な理由②かれらについて知ることが、自分について知ることにもなるから
- 大切な理由③純粋に楽しいから
なぜゲイだけで集まるのか
たぶん、ゲイだけで完結できてしまうからだと思います。
LGBTQで集まると、ゲイは人数的に多くなりがちです。つまり、ゲイだけでそれなりに大きいコミュニティがつくれてしまう。そのなかで交流しているだけで時間が過ぎてしまう。充足してしまう。
きっと、それで十分楽しいんだと思います。同じような経験をしているひと、恋愛や性愛の対象になりうるひとたちですから、そこで十分に充足できる。ぼくがゲイサークルに入って活動していたときも、そのように思えました。
一方で、ゲイ以外のセクシュアリティの場合は、比較的人数が多く集まらなかったりして、そうすると「ほかのセクシュアリティのひととも交流してみようよ」という話になるのではないでしょうか。
人数の多さは、ゲイの特権のひとつでしょう。
ほかのセクシュアリティとの交流は大切なこと?
ゲイの集団には凝集性が強くあって、そのためにほかのセクシュアリティのひとと交流しづらい状況にあると言えるかもしれません。
その点、ぼくの記憶では、交流会を主催する側が意識的にシャッフルして、いろんなセクシュアリティのひと同士で交流する機会を設けていたりしたこともありました。例えば、事前にくじびきでグループを作ってグループワークをするなど。
では、ほかのセクシュアリティのひとと交流することは、そんなに大事なことなんでしょうか?
ゲイだけで充足してしまって、なにが悪いんでしょうか。
大切な理由①ぼくらはずっと一緒にやってきたから
LGBTQの歴史を見ると、「クィア(変態)」と呼ばれたひとたちが集い、コミュニティが形成されてきて、そこからアドボカシーが始まった経緯があります。
(『LGBTヒストリーブック』は資料的価値がとても高く、読み応えもあり、オススメです)
性的指向に関するマイノリティ(同性愛者、両性愛者など)と性自認に関するマイノリティ(トランスジェンダー、トランスセクシュアルなど)が同居するようなかたちになっている「LGBTQ」という言葉が使われてきたのは、ぼくらが社会に「クィア(変態)」として蔑まれ、排除されてきた歴史があるからでしょう。
そして、そのアドボカシーのなかで、トランス女性やレズビアンのひとたちが担った役割の大きさについて指摘されています。(一方で、映画『ストーンウォール』は、「トランス女性の活躍をゲイの活躍として改竄している」と批判されるといった動きもあります)。
ぼくらがいま得ている権利は、例えばトランス女性の活動家による命をかけた運動のおかげである。
「だからトランス女性と仲良くしろ」と言いたいわけではありません。ぼくらのコミュニティには、ゲイ以外にもいろんなセクシュアリティのひとがずっといた。ぼくのすぐ隣りにいて、一緒に怒ったり悲しんだりしてくれた。
そのことの意味について考える必要があるんじゃないか、と思うのです。
大切な理由②かれらについて知ることが、自分について知ることにもなるから
ゲイ同士でも<違い>はありますが、凝集性の高い集団では、同質性や均質性ばかりが高くなって、そこにある<違い>が見落とされがちになるように思います。
同質性を確認し続けるのではなくて、<違い>にも目を向ける。自分とまったくちがうと思っていたひとにも共通点があることを知る。<違い>から照射される自分というものがあることを発見する。
この理由を延長していくと、LGBTQ以外のさまざまなマイノリティと交流してみる必要性を唱えることもできると思います。
そこにある<違い>に目を向けることによって、人間の多様性を知ることになるし、差別や偏見の解消に繋がり、また自分と向き合うことにもなるでしょう。
大切な理由③純粋に楽しいから
これはもうただ純粋に、楽しいからという理由です。
理由②とも重なりますが、「世の中にはいろんなひとがいるんだなあ」「自分とちがうひとだと思っていたけれど、意外と共通点があるもんだなあ」と知ることの楽しさがあります。
そこまでいくと、「〇〇というセクシュアリティのひとと交流する」というより、「××さんというひとと交流する」という次元ですかね。セクシュアリティをはじめとしてさまざまな<違い>について考慮しつつも、あくまで1人の人間として相対する、みたいな。
自分と同じセクシュアリティとつるむことだけがすべてではないと思います。きっと。
とはいえ僕も、つい友人関係がゲイばっかりになりがちなのですが…。