おさむです。
高校生の頃にゲイであることをカミングアウトし始めて、それから約7年が経ちました。
今回は、その約7年間を振り返って、僕にとってのカミングアウトの意味と生きづらさについて考えてみようと思います。
最初のひとり
人生で初めてカミングアウトしたのは高校生の頃。部活の先輩から「実はバイなんだ」とカミングアウトされて、それでぼくも(最初は疑いましたが、しばらく話していると本気なのだと確認できたので)カミングアウトしました。
それからいろいろあって、全校生徒の前でカミングアウトをしました(この話は、また別の機会に)。
友人からいじめられたり、先生から差別的な発言があったりした一方で、同じLGBT当事者からカミングアウトを受けたり、差別的でないシスジェンダー・ヘテロセクシュアル(異性愛=ノンケ)の友達ができたりしました。
オープンリーな日々
それからというもの、ぼくは積極的にカミングアウトするようにしています。
初対面でも、「彼女いるの?」とか「好きな女性のタイプは?」とか聞かれようもんなら、すぐにカミングアウト。
カモフラージュの技術を身につけずにきたので、うまく嘘がつけないし、嘘が見破られたらどうしようと不安になるのも嫌なので、えいやあ、といった感じで「ぼく、ゲイなので」と言い。
「突然でびっくり」といった反応もあれば、「ああ、そうなんだ。友達にもいるよ」くらいの反応もあって、人それぞれです。
これができるのは、都会のほうに住んでいるからかもしれません(高校生の頃は地方に住んでいて、それはひどい差別を受けました)。
カミングアウトは突然やっちゃダメ?!
とはいえ、都会でカミングアウトしていても、しんどい反応をしてくるひともいます。
「突然そんなこと言うと、相手をびっくりさせてしまうから、やめたほうがいい」と諭してきた大学の先輩もいました。
突然って、じゃあいつだったらいいんでしょう?
「今日は衝撃的な発表をします。心の準備をしてください。…できましたか? 念のために、一回大きく深呼吸しましょう。救心を手元に置いておきましょう。…はい。では言いますね」みたいな前振りが必要だったんでしょうか?
そんなのおかしいですよね。
なぜカミングアウトするのか
勝手に決めつけられる=同性愛者はいないことにされているから、結婚制度は依然として異性間だけにしかないし、教育現場でもそのような前提で教育がなされます(例えば、保健の教科書では「思春期になると異性を好きになる」と書いてあるものがある)。
だから、カミングアウトをしないといけない。何も言わなくても自分の分のイスが用意されているマジョリティとは違って、ぼくらは「すいません、ここにもイスください」と言わないと、座る場所がない。
それに対して「突然すぎる」「びっくりした、やめて」などと非難してしまえるというのは、マジョリティの傲慢じゃないかとさえ思います。
だから、これも過去に言われたことですが、「わざわざ言わなくてもよくない?」っていうのもおかしい。わざわざ言わなきゃダメなんです。わざわざ言わなきゃいけない社会になってしまっている。批判するならそんな社会のほうに矛先を向けてほしい。
おわりにーーカミングアウトがない社会
いずれは、カミングアウトという概念がなくなればいいなと思います。
そこでは、「ぼくは同性が好きなんだ」と言うことで不利益を被ることはありません。言うか言わないかを選べる。どちらを選んでも不利益を被ることはない。
そんな社会になっていくといいなと思います。
それまでは、まだまだ積極的に「ここにイスがないぞー!」「こっちにもない!」と声をあげることが必要なんじゃないかと、ぼくは思っています(それに対して、「権利ばっかり主張してうるさい」などと反論するのは、ただただ差別を肯定していることになると思います)。