Netflix映画「オールド・ガード」を見た。アメコミ原作、シャーリーズ・セロン主演。数百年〜数千年にわたって暗躍し、人類を救ってきた不死身の戦士たちの物語。アクションも演出も素晴らしいし、シャーリーズ・セロンはめちゃくちゃかっこいいし、今年見た映画の中でもトップクラスに満足できた作品なのだが、特筆すべきは不死身の戦士たちのなかにゲイのキャラクターがいて、その描写がなんと素晴らしいこと!
このクリップ映像に出てくる2人が、不死身の戦士のジョーとニッキー。どちらも1,000年くらい生きていて、十字軍がイスラム教の拠点を攻撃したときに、この2人は敵対する戦闘員として出会い、それから数百年にわたってパートナーシップを築いている。クリップ映像のシーンが表しているように、見てるこっちがちょっと恥ずかしくなってしまうほどにロマンティックな関係性として描かれている。ほかの不死身の戦士たちが、不老不死ゆえにパートナーや家族を老いや病によって失い、孤独に陥っているなか、この2人だけは強い愛情で結ばれている……というギャップが描写される。
とにかくこの2人の関係性に萌えて仕方がないのだが、以下では、これまで映像作品でゲイがどのように表象されてきたか、その批判や問題提起を踏まえて考えたことや感想を語っていきたい。
素晴らしいところ①クィア・ベンディングでない
LGBTQのキャラクターや同性同士のロマンスなどを匂わせておいて、視聴者を期待させておいて、結局は違う……みたいな、そういうマーケティング戦略を批判する言葉として「クィア・ベイティング」というものがある。
あるいは、これはクィア・ベイティングではないかもしれないけれど、劇中ではそのような描写は一切ないのに、裏話や製作者のインタビューなどで「実はこのキャラクターはLGBTQの設定なんです」と言われることもある。例えば、「ハリーポッター」シリーズのダンブルドアとか。
あるいは、昨年公開されて世界的に大ヒットした「アベンジャーズ:エンドゲーム」には、MCU初のオープンリー・ゲイのキャラクターが登場したけれど、実際にはモブキャラの1人でしかなく、登場するのはワンシーンのみだし、セリフを聞き逃すと気づかないレベルだった(実際、ぼくは最初気づけなかった)。
要するに、「もっとちゃんと描写してよ!」と言いたい。マーケティング戦略として匂わせるだけだったり、描写はないのに設定だけ立派だったり、描写があっても一瞬だけだったり、そういうのはホントにガッカリする。せっかく描くんだったらちゃんと描いてほしい。
そういう不満を持っていたぼくにとって、「オールド・ガード」のジョーとニッキーの描写は非常に満足できるものだった。もちろんこの映画のジャンルはLGBTQ映画ではなくてアクション映画なので、ゲイカップル描写に終始するわけではない。だが、限られた時間でめいっぱい描写されていて、非常に満足できるのだ。
素晴らしいところ②悲惨な死を遂げない
映画に出てくるゲイのキャラクターって、悲惨な死に方をしたり不幸になったりっていうのがありがちだと言われていて。それは社会のホモフォビアの表れでもあると思うけど、もっと幸せに生きるゲイのキャラクターがいてもいいんじゃないかとも思う。この点については、トランスジェンダーのキャラクターについても同様だと、Netflix「トランスジェンダーとハリウッド」で言われている。マイノリティの悲惨な死が(安易な)感動を生むみたいなプロットって、もう見飽きた。
でも、「オールド・ガード」のジョーとニッキーは不死身なのだ!!悲惨な死を遂げることはない。むしろ劇中で唯一のロマンティックな関係性として描かれている。もちろん「こんなロマンティックな関係なんて非現実だわ」と批判することもできるけれど、「ゲイのキャラクターは悲惨な死を遂げがち」という傾向を考えると、こういう描写も必要なんじゃないかとも思う。
このことについて、脚本家のグレッグは「幸せなLGBTQ+のカップルを描きたかった」と言っている。
ジョーとニッキーは、数百年も行動を共にしているというのにもかかわらず、明らかにお互いに恋し続けている。こういった関係性は、ストレートのカップルの描写ではよく見られるけれど、そのほかの形のカップルの間では滅多に見られない。とくにハリウッドは、LGBTQ+キャラクターを起用しても悲観的な描き方をしがちと批判され続けているため、『オールド・ガード』は、そんな映画界のステレオタイプを打ち破る作品でもある。
ちなみに、『オールド・ガード』に登場する唯一のロマンチックなカップルはこの2人だけ。だからこそ、グレッグは特に訴えたかった重要な要素を2人の関係に入れ込んだという。
ありがとう、ポリコレ
以上の2点において、これまでなされてきた批判や問題提起をしっかり受け止め、ゲイのキャラクターを描写しているのがすごいと思って感動した。だからこそ、ジョーとニッキーの描写はそれほど多くはないのに、胸に迫ってくるものがあるし、萌える。
ただ一方で、このようにLGBTQのキャラクターが登場することに対して、「うわ、またポリコレかよ」「ポリコレ疲れ」などというツイートをいくつか見かけた。そのことについていろいろツイートしたものを以下にセルフ引用しておくが、マイノリティの闘争やアドボカシー、それを受けて作り手が行ってきた試行錯誤を知らないからこんなことを軽々しく言えるんだろうなと思う。
映画やドラマにLGBTQのキャラクターが出ると「ポリコレだ」とかいって茶化してくるやついますけど、ゲイのぼくからするとゲイのキャラクターが出ることで物語への没入度がグッと増すのよね。スーパーヒーローもので一般人のキャラクターを出すみたいに。
— 元気のないおさむ (@nigenigeOsamu) 2020年10月25日
「キャプテン・マーベル」を見たときに、ぼくは女性ではないけれど、性に関する抑圧を受けたひとりとしてキャロルの姿にはものすごい自己投影できた。「これはぼくのヒーローだ!」って思えた。それまでのスーパーヒーローものも楽しんで見てたはずだけど、本当の意味で没入してなかったなと気づいた。
— 元気のないおさむ (@nigenigeOsamu) 2020年10月25日
人種や性の多様性が描かれると「ポリコレだ」って茶化したり、それでなんか言った気になったりするのってホントに不愉快。そこに至るまでの人々の闘争やアドボカシーや創意工夫や試行錯誤をちゃんと見ろよって思う。
— 元気のないおさむ (@nigenigeOsamu) 2020年10月25日
もちろんポリコレだったら何でもいいわけではないし、白人中心主義や異性愛中心主義や家父長制的な作品に馴染んでしまった我々からするとポリコレが作為的だと思えるのは仕方ないことだけど。でもさ。
— 元気のないおさむ (@nigenigeOsamu) 2020年10月25日
何が描かれているか/描かれていないのか
ここまで書いてきたように、「オールド・ガード」におけるゲイカップルの描写は革新的なものがあったように思う。ただ、懸念点もある。例えば、同性愛者や両性愛者が表象されるときにカップル単位で描かれがちなこと。これは足立区議の差別発言に対するカウンターとして「#私たちはここにいる」というムーブメントが起こったときにも言われたこと。
映像として”分かりやすく”表象するために、カップル単位で描かれやすくなってしまっている現状があるんじゃないかと思う。しかし、異性愛者と同様に、独り身の同性愛者や両性愛者だっているし、アセクシュアルの同性愛者や両性愛者もいる。
あるいは、ジョーとニッキーは不老不死なので、エイジングの描写がされていないということもできる。今年、早稲田大学演劇博物館で行われた企画展「Inside/Out——映像文化とLGBTQ+」でも、「性的マイノリティの老いと若さを考える」という章立てがされていた。この企画展の企画・構成をした久保豊は、ドラマ「きのう何食べた?」を取り上げて、エイジングについて次のように論じている。
異性愛中心主義社会において、人々はライフコース(結婚、出産、子育てなど、社会的に定義されたイベントや役割)を特定の年齢で満たすことを期待される。異性愛者ではない人々や、異性愛者であっても異性愛規範に懐疑的な人々は、エイジングの過程においてこのようなライフコースとは異なる時間を生きる。例えばクィアな若者にとって、親や社会から期待される異性愛規範的なライフコースを満たせないのではないかという不安は重圧となり、しばしば命を奪う。
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日本映画やテレビドラマにおいて、中年や高齢の性的マイノリティを描く作品はあまりにも少ない。だからこそ、シロとケンジの日常を映像化する意義は、中年のゲイカップルが共に年を重ねる経験に対する想像力を地上波で拡散した点にある。中年のゲイカップルとして彼らが提示する日常は、無数にある生き方の一つに過ぎないかもしれない。しかし、二人が日常の連続のなかで年をとる姿は、シロやケンジと同世代の人々だけでなく、クィアな若者たちにとっても未来を想像するための糧となるだろう。
もちろん1つの映像作品で描写できることには限界があるだろうけれど、「何が描かれているのか/描かれていないのか」についてはしっかり見ていきたいと思った。
おわりに
いろいろと思うことを書き連ねてきたが、とにかくジョーとニッキーの関係性が魅力的で激推しなので、ぜひ「オールド・ガード」を見てほしい。今回はジョーとニッキーの描写についてのみ取り上げたが、ド派手なアクションや壮大な世界観など、そのほかにも素晴らしいところがたくさんある作品なので、よかったらぜひ。