にげにげ日記

にげにげ日記

(元)不登校ゲイの思索

カミングアウトしても「本当の自分」「ありのままの自分」にはなれません

職場で少しずつカミングアウトしている。長らくオープンリー・ゲイとして暮らしてきた身としては、思い切って一気に全員へカミングアウトしてしまいたいところだが、もしかしたら長く居座る職場になるかもしれないと考えると、慎重にならざるを得ない。とりあえず業務上よく接するひとにはカミングアウトをし終えた。

 

たしかに、カミングアウトをしていないときと比べると、カミングアウトをした相手と接しているときはいくらか息がしやすい感じがする。肩の荷が下りるというか。松田龍平の素晴らしさについて開けっ広げに語り合える職場、良き。だけれど、この状態を「本当の自分」とか「ありのままの自分」とか、あるいは「自分らしさ(がある)」などと思わないようにしようと意識している。

 

「私のどこが好き?」問答

なぜなら、突き詰めて考えると、「本当の自分」「ありのままの自分」「自分らしさ」といった言葉が感じさせる、キラキラ輝くこの世にたったひとつの個性のようなものなど存在しなくて、それらを追求しはじめるとドツボにハマってしまう「呪い」にかかってしまう可能性があるから。

 

大学生のときに、社会学の教授が講義で話していたことでよく覚えているものがひとつある。あるカップルの片方が、「私のどこが好き?」と相手に尋ねる。尋ねられたほうは、しばらく考えた末、「目が大きいところ」と答える。尋ねたほうは、それを聞いて不満そうにしている。「自分より目が大きいひとなんていくらでもいる」と。相手は、慌てて「手が大きいところも好きだよ」と言う。すると「自分より手が大きいひとなんていくらでもいる」と返される。この問答が繰り返される。

 

この話を聞いて、この世にたったひとつの「自分らしさ」なんてものは存在しないのだと思い知った。平凡な自分というものを受け入れていくしかないのかな、とも思った。ちなみに教授は、先のカップルの問答におけるベターな答えとして、「え、そんなところ?」と思わせるようなことを言えばいいのだと話していた。例えば、歩くときに左肩がちょっと上がっているところが好きだよ、とか。なんか納得した。自分らしさっていうのは、そういうどうしようもないところに表れるのかもしれない。

 

にんじんをぶら下げられた馬

実は存在しない「本当の自分」「ありのままの自分」「自分らしさ」は、美化され、ひとびとの行動のモチベーションに有効に働きかけるような機能を持っているように思う。少し話が逸れるが、数年前に電車で見た求人広告には「ここでなら自分らしく働ける」と書いてあった。もちろん消費を促す効果もあるだろう。マーケターやコピーライターが多用するわけだ。

 

閑話休題。もちろんこの異性愛中心主義でホモフォビック、トランスフォビックな社会で、クローズドなLGBTQの当事者が生きづらさを解消していくための目印として、「本当の自分」「ありのままの自分」「自分らしさ」などの言葉が使われることはあるだろうし、それ自体を否定したくはない。しかし、それらの言葉があまりにも多用されて、支配的な物語ドミナント・ストーリー)として普及するのはどうかと思っている。

 

例えば、「身近な存在としてのセクシュアル・マイノリティを可視化させ、正しい知識や理解を広げるきっかけ」になるよう実施されているプロジェクト「Out In Japan」では、市井のひとびとのポートレートと一緒に、そのひとのカミングアウト・ストーリーが掲載されている。これまでに2,000名以上がこのプロジェクトに参加しているらしい。

 

outinjapan.com

 

「ありのままで」のその先へ

大学生のときに、先に紹介した教授の講義のレポートで、「Out In Japan」に掲載されているカミングアウト・ストーリーを分析した。その結果、「本当の自分」「ありのまま」「自分らしさ」という言葉がいかに頻出するかを提示できた。「アナと雪の女王」がヒットした直後だったのもあって、特に「ありのまま」は多用されていた。

 

カミングアウトがうまくいけば、まわりのひととの人間関係が再構築され、より良い関係性が築ける。冒頭に書いたように、息がしやすくなる感覚があるかもしれない。けれど、カミングアウトがいつもうまくいくわけじゃないし、そもそもカミングアウトをしなければ異性愛者と見なされるこの異性愛中心主義の社会や、カミングアウトのハードルやリスク(あるいはアウティングのリスク)を高めるホモフォビアやトランスフォビアがいまだにこの社会で存在感を持っていることの問題性を忘れてしまってはならないと思う。

 

カミングアウトしても「本当の自分」「ありのままの自分」にはなれない。そもそもそれらは存在しないし、マーケティングの動機付けでしかないのかもしれない。鼻先にぶら下げられたにんじんではなくて、社会のあり方をこそ見つめていきたい。

 

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