にげにげ日記

にげにげ日記

(元)不登校ゲイの思索

「生きること」をちょっとだけ諦める。あるいは『エンドゲーム 』論的なやつ

セミの抜け殻、生きたい

小学校4年生から中学校を卒業するまでの約6年間、ぼくは不登校・引きこもりで、ほぼ毎日「誰か、ぼくを殺してくれ」と願っていました。

 

生きる望みも楽しみも展望も何も手元には無くて、「学校に行っていない」という負の烙印と世間の視線という圧で潰されていたぼくを、母は「セミの抜け殻みたいだ」と称したのを覚えています。

 

それからしばらく経って、三島由紀夫の『仮面の告白』という小説で、主人公が次のように述懐するのを読みました。

 

「誰か殺してくれ」と願うのは、「誰か生かしてくれ」と願うことである。自分で自分を生かすことができないから、その役割を誰かに担ってほしい。要は、他力本願です。あるいは、あまりにも「生きること」のプレッシャーが大きすぎて、手に負えない状態。

 

招集のときを待つ男たち

TBSラジオ荻上チキ Session-22」が好きで、よく聴いています。10月23日の【特集】「劇作家・俳優の岩井秀人さんが語る。なぜ、引きこもり状態になり、どう脱したのか?」という回で、興味深い話があったので、ちょっと文字起こししてみます。

 

岩井「社会に出ることに失敗したというのに、自分には何かある(引用者注:何か大きな目的や役割が課せられている)としぶとく思っていた。ホントにここに連れてきて説教したいんですけど(笑)」

荻上「分かりますよ。黒服のひとがやって来て、『ここにいたんだね、秀人くん』みたいな」

岩井「そうそう(笑)。『やっと見つけたぞ、何してたんだ、今まで?!』みたいな。そう思ってたんですけど、20歳になったんですよ。あれ、(黒服のひと)来なくない?と思ったんですよね…。なに、この生々しい年齢って。もう成人ですよね。何してたんだろ、いままでって思って。『あ、この人生ダメだ、失敗した』って思って、ベランダに立って、どうしようか、と…」

 

やや話が飛躍するかもしれないけれど、これは男性にありがちな幻想ではないでしょうか。男性たちは、幼い頃から大きな夢を持つことを期待される。「お花屋さん」「パン屋さん」「お母さん/お父さん」などの「堅実な」職業ではなくて、「スポーツ選手」「科学者・研究者」など比較的パイの少ない職業を目指すべきだとされる(明言はされないけど、そうでしょう)。

 

いつしかその規範は内面化されて、ぼくらの人生には何か壮大な目的や役割があるのだと思うようになるのではないでしょうか。仲間たちが危機に晒されたとき、身体の底で眠っていた力が覚醒するのではないか。あるとき変身ベルトを託されて、巨大な悪と戦う運命が課されるのではないか。サノスと戦うときには、きっと自分にも招集がかかってポータルをくぐるはずだ。

 

Portals

Portals

 

 

「次の10連ガチャでは当たりを引けるはず」よりかは少しだけ現実味のある感じで、そう妄想している自分がいませんか(いませんでしたか)

 

弱音を吐けない、「戦え」に潰される

男性は、ともに戦う仲間になるかもしれないほかの男性たちに弱音を吐けません。

 

「サノス、正直怖いんだよね」「勝てる算段ないし、逃げようよ」などと口走ろうもんなら、「男失格」「勇気も力もない、取るに足らないやつ」「こいつとは一緒に戦えない」と、格を下げられてしまう。怖くても、勝てる算段がなくても、「やってやるぜ!」と意気込んでみせるのが男だ、という規範がある。これがだいぶキツい。「性別に関わらず、力があるやつで戦おう!」ではなくて、「男は戦うべし!」なんですよね。

 

 

他方で、そこで女性は、男性の都合によって社会的・文化的に位置付けられてしまいます(それを差別といわずして何と言おうか)

 

男性同士の間では弱音を吐けないから、女性にはケアの役割を担ってもらおう。男性が100%以上のパフォーマンスを発揮するために、女性には男性の身の回りの世話をしてもらおう。戦場は男性に独占され、戦いたい女性はハラスメントを受け、排除されてしまう。

 

当然、こんな状況はいち早く変えなくてはいけません。そして、こんな状況を変えることは、プレッシャーから男性を解放することにも繋がるのではないでしょうか。女性解放と男性解放は、少なからず重なる部分があるはずです(とはいえ、本来的には、男性のためになるかどうかに関わらず、女性は抑圧から解放され、差別は是正されるべきです)

 

男も女も戦う時代/戦いから降りる物語の創出

白人の男性ばかりだった時代から、人種や性別などさまざまな点でヒーローの多様性が増してきています。みんなが戦える時代にしていこう。そのような旗印が掲げられています。

 

そしてその一方で、戦いからの降り方も示されてもいます。アイアンマン、ソー、キャプテン・アメリカ、そしてブラック・ウィドウは、それぞれ有終の美を飾ったり飾らなかったりしながら(どのようにして飾るかはそれぞれの自由であるべきだと思います。ぼくらがみなそうであるように)、戦場から降りていきました。

 

そう、ぼくらはこのプレッシャーから降りることができる。

 

しかし、一方で、戦いたい男性や、「本当は戦いたくないけれど、『戦いたい』という姿勢を示さなきゃいけない。それができないやつは馬鹿にしていい」と思っている人々(性別に限らずいます)の存在があって、先に示した「こんな状況」はなかなか変わりません。これは、全体主義がまだまだ残っている証左でもあるでしょう。

 

戦いたいひとは、戦えばいいと思います。しかし、そこに「◯◯は戦うべし!」と、◯◯の部分にあるカテゴリーを雑に埋め込まないでほしい。戦いたい男性もいれば、戦いたくない男性もいる。戦いたい女性もいる。性別もまた多様で、性別役割それ自体にも疑義が向けられている。さまざまな物語があっていいと思います。まずは、降りたいひとが「降りたいんだよね」と言ってみる。それに共感するひとは、「わかる!」と言ってみる。 そんな感じで、どうですか?

 

プレッシャーから降りる、「生きること」をちょっとだけ諦める

なにか等身大以上の壮大な生き方や成果を求められ、それができないぼくは、「誰か、ぼくを生かしてくれ」とは言語化できずに、代わりに「誰か殺してくれ」と願ってしまいました。

 

同じことだと思います。壮大な生き方や成果を求められること、いつかヒーローとして招集の声がかかるのではないかという期待。これらは「『生きること』のプレッシャー」の別の2つの面であり、このプレッシャーは、ぼくらを駆り立て、できない者に負の烙印を押します。プレッシャーによって成功したひとはもちろん、負の烙印を押されてしまったひとも、その根幹にある「プレッシャー」それ自体をなかなか見つめることができずに、むしろ再生産してしまう。

 

だから、降りましょう。サノスなんていない、淡々とした日常を暮らしていくことを、誇りに思いましょう。

 

すぐに降りるのが怖ければ、(まずはその怖さをしっかりと受け止めてあげてから)ちょっとだけ勇気を出して、路肩に座して、「このプレッシャーというやつは、一体何なんだ?」と考えてみませんか。サノス戦に繋がるポータルの手前で、「ちょっと待って、やっぱ無理」と言ってみませんか。そこには同じような疑問を持っている友人が、少なからずいるはずです。

 

てか、ぼくはそこにいたい。ポータルの手前にレジャーシート敷いて、軽食とコーヒー片手に恋バナとか最近あったことについておしゃべりしませんか。

 

アントマンも同席してくれたらいいのに。