はじめに
マイノリティのアドボカシーを進めていくなかで、「マジョリティにとっても生きやすい社会になりますよ」と言ってしまうことがあります。
例えば、
「LGBTにやさしい社会は、みんなにやさしい社会です」
「女性解放は、男性もまた解放してくれます」
「ユニバーサルデザインは、健常者にとっても便利です」
どれも「マジョリティにとっても得ですよ、だから賛同・協力してください」と言いたいわけです。でも、この言い方ってちょっと違和感があります。
「多様性のある社会へ」というイデオロギー
実際、マイノリティが生きやすい社会というのは、マジョリティにとっても生きやすい社会であると言えるとは思います。
大学生のとき、ある教授が「明日はあなたもマイノリティ」と言っていましたが、誰だっていつ怪我や病気をするかわからないし、日本から1歩外に出れば「外国人」なわけです。誰だってマイノリティになり得るからこそ、マイノリティにとって生きやすい社会は、回り回ってあなたにとっても生きやすい社会になる。
それはわかるのですが、でも、それでいいのか?と思う部分もあります。「マイノリティが生きやすい社会は、マジョリティにとっても生きやすい社会」と言えるのは確かだけど、それ、言ってしまって本当にいいのか、と。
あなたの利益はちょっと置いといてよ
穿った見方と言われてしまうかもしれませんが、これらの言説って、「マジョリティ視点でそのアドボカシーの是非を問うてしまっているもの」ではないでしょうか。
本来的には、LGBTじゃないひとにとって利益がないことであっても、LGBTに対する差別や抑圧はなくしていくべきです。女性解放もまた、男性に利益があろうがなかろうが、やるべきことです。むしろ、これまで男性中心主義でやってきて、男性に下駄が履かされてきた結果、女性は差別や抑圧を受け続けてきたのだから、そこからの解放により、男性にとっては不利益が出るかもしれません。それでもやるべきなのです。
「みんなは迷惑がるかもしれないけれど、私たちにとっては耐えがたい差別と抑圧がここにあるのだから、無くしていこうよ」
「あなたにとっては利益がないだろうけれど、私たちにとっての多大な不利益を取り除きたいから、賛同してくれないかな」
こんな風に言ったっていいわけです。それができないというのなら、マジョリティに対して阿ってしまっている状況があると言えはしないでしょうか。
運動的に、対外的に。
でも、こんなことを言うと、次のような返答をもらいます。
「アドボカシーとして、運動的に、対外的に受け容れられやすい言説として、『マイノリティが生きやすい社会は、マジョリティにとっても生きやすい社会』を広めないといけないのだ」
つまり、「あなたにとって不利益にならない範囲で、私たちの権利を認めてください」というような姿勢。奴隷根性ってこういうことを言うんでしょうか。ちょっと言いすぎでしょうか。
他方で、この言説は、たしかにある程度の成果をもたらしました。LGBTという言葉がこれほどメジャーになって、メディア露出が増え、社会制度も少しずつ変わり始めてきている。その成果は認めなければいけない、と思っています。
しかし、この言説には副作用もあるのじゃないかと思います。先のような奴隷根性を前提にしてしまっているということを、どれだけのひとが気づいているでしょうか。「プライド」はどこにいってしまったのでしょうか。
ぼくらはいつか、この副作用と向き合わないといけない時期が来るのではないか。そんな予感がしています。