にげにげ日記

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(元)不登校ゲイの思索

自分の側に引き寄せすぎてはいけない——小川たまか『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』を読んで考えたこと

「痴漢冤罪って怖いですよね」

大学生のとき、ある講義で、どういう経緯だったか忘れたが、「痴漢」について近くに座っているひととディスカッションしろと指示されて、初対面の学生2人と話をした(どちらも男性だったと思う)。

1人が、開口一番、「痴漢冤罪って怖いですよね」と言った。恐る恐る、とかではなく、純粋に、「肯定されて当然」といったような様子で言った。おいおい、嘘だろ、と思った。

 

痴漢冤罪の問題を持ち出すことによって、痴漢を問題化する声をかき消そうというやり方は、Twitterなどで散見される。痴漢冤罪も、痴漢も、痴漢の「加害者」がいることで起きる問題だ。なのに、この2つの問題を二項対立にすることで、「痴漢冤罪は『痴漢だ!』と問題化するやつのせいで起きる悲劇なのだ」という風に、議論があらぬ方向に脱線してしまう。そこで痴漢の「加害者」は透明になる。

 

小川たまか『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』に収められている「透明な痴漢常習者」は、そのような現状を突く。

 

「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。

「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。

 

 

問題を自分の側に引き寄せすぎてはいけない

ディスカッションで、その学生に対して、ぼくは何らかの反論をしたように記憶している(詳しくは記憶していない)。

痴漢冤罪をふっかけられるのは、そりゃあ怖いだろう。ぼくも怖い。その感情は抑圧しなくていいと思う。でも、そこで一旦止まって考えるべきだ。

 

痴漢について話をする際に、真っ先に「痴漢冤罪の怖さ」を挙げるのは、問題を自分の側に引き寄せすぎている。自分の立場性に固定されすぎだ。一度自分の立場を離れてみて、想像力を働かせて、実情を知って、そうして自分の立場性を自覚した上で発言しなければいけない。

 

社会問題の語り方

ある社会問題について語る際、まず自分がそのこととどう関わりを持つか、と考えることができる。自分の日常、生活圏、経済活動、仕事や趣味などの範囲で考えたら語ったりする。しかしこれは、「自分さえ良ければいい」という風な利己的な思考になってしまう可能性があって、本記事ではこれを批判している。

 

次に、自分の立場性から離れて「中立・中庸」な視点を獲得しようとすることがある。しかしこれは、往々にして、加害者や抑圧者を肯定し差別的な現状を維持しているだけ、という状況を招く。

差別や暴力が行われている場面で、「中立・中庸」な立場なんてあり得るのだろうか? ぼくはあり得ないと考えている。

 

利己的でもない、両論併記でもない語りを、探さないといけない。

 

全体の構造を知り、歴史を知り、その中で誰がどんな立場に置かれているのか。告発者はぼくらになにを訴えかけているのか。ぼくらの立場性にはどんな責任が課せられているのか。

 

補論――同性婚夫婦別姓

同性との結婚を認めないのは憲法違反だとして、各地の裁判所で一斉訴訟が起こっている。国立社会保障・人口問題研究所の調査では、同性婚に「賛成」の人の割合が51%にのぼるそうだ。

 

www.nikkei.com

 

このような一連のムーブメントについて、いろいろと言えることはあるだろう。ぼくとしては、この調査のように、ひとの権利について「認める」「認めない」とジャッジできる立場それ自体への違和感・抵抗感があるのだが。

 

同性婚に反対する理由とはなんだろうか? 

 

「同性愛者が増えるから」なんていうのはとんでもないデマで、っていうか増えて何が悪いのか分からない。ひとが異性愛であるか同性愛であるか(両性愛であるか)を誰かが勝手に強制していいとでも思っているのだろうか。むしろ異性愛者たちには、同性愛者を異性愛者に「治療」「強制」しようとしてきた歴史を反省してもらいたい。

 

異性愛だろうと同性愛だろうと両性愛だろうと、そのひとが制度的に差別されるような状況は許容できない。ただそれだけのことなのだ。

 

同性愛者はすでにたくさん存在していて、みんなと一緒に暮らしているし。それらの存在を制度として認めたくらいで、この社会の秩序は壊れたりしないだろう。

 

同性婚は、そして夫婦別姓も、それを制度として認めることで選択肢を拡充することができる。これまで使いたかったけど使えなかったひとが、使えるようになる。「いま使えているひと」は、なにも損しない。当事者はここにいるのだ。

 

それでもなにか反対したいひとたちは、自分の側に引き寄せすぎてはいないか?

 

同性婚夫婦別姓を認めることで、あなたの生活は特に変わりはしない。考えるべきは、この問題の当事者たちの生活が変わること、権利がちゃんと整備されること、これまで差別され続けてしまっていたことだ。