にげにげ日記

にげにげ日記

(元)不登校ゲイの思索

変態で、なまけもので、周りの目を気にしなくて、ときに犯罪者にもなるわたしたちみんなの運動へ向けて

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偏見や間違った認識ををなくすために

まず、この社会には偏見が溢れている。さまざまなマイノリティに対するさまざまな偏見が蔓延っている。多くのひとは、偏見は良くないと思っていながら、それを修正する機会に恵まれなかったり、自らそういった機会を得ようとはしなかったり、あるいは公正世界仮説や特定のイデオロギーにもとづいて偏見の存在を指摘するひとを逆に非難・攻撃したりする。
 
偏見を向けられる当事者だったり、偏見それ自体や偏見から生じる差別、あるいは歴史的・文化的につくられ、維持されている差別を無くしたいと思っているひとびと(支援者やアライなどと呼ばれたりするひとも含まれる)は、このような社会を変えようとして、さまざまなアクションを行ったり行わなかったりする。
 
さまざまなアクションのうち、ひとつは、差別とは偏見や誤解や無知から生じるものであるという考えから、マイノリティの現在における典型的なあり方(”リアル”)を表象・喧伝していくことで、差別や偏見を解消していこうというものだ。
 
例えば、「LGBTは変態だ」という偏見に対して、「そうじゃない。あなたの周りに”フツーに”暮らしている」と言ってみたり、「怠けているから貧困になるんだ」という偏見に対して、「そうじゃない。一生懸命働いているのに、社会構造的な問題によって貧困状態になり得るのだ」と言ってみたり、おもにトイレ利用の文脈で「トランスジェンダーは犯罪者だ」という間違った認識に対して、「そうじゃない。当事者たちは周りの目を気にしながら暮らしている」と言ってみたりする。
 
そのようなアクションによって、ある程度の偏見や間違った認識が解消され、当事者の生きづらさの軽減に繋がっていると思う。辛抱強さが求められる地道な活動には、頭が下がる思いだ。
 

表象のもつパワーと功罪

一方で、ここからが本題なのだが、先述したようなマイノリティの現在における典型的なあり方が表象・喧伝されることで逆効果もまた起こるのではないだろうか。それは、先の例でいうと、”フツーに”暮らしていないLGBTのひとびとの存在が見えづらくなったり、支援の対象になりづらくなったりする。あるいは、だらだらまったり暮らしている貧困状態にあるひとの存在が見えづらくなったり、支援の対象になりづらくなったりする。または、トランスジェンダーは周りの目を気にしながら暮らさなきゃいけないようなムードや規範のようなものが出来てしまう。あるいは、犯罪者の人権だったら剥奪してしまってもいいような社会通念が出来てしまいかねない。
 
それは、例えば、不登校に対するネガティブなイメージをはねのけるために作られた「明るい登校拒否児」というストーリーが、今度は不登校の当事者を苦しめるようになっているという指摘とも符号するだろう。
 
たしかに、明るく元気な人びとの姿や彼らのその後のサクセス・ストーリーは、より多くの人が「学校に行かなくてもOK」と思えることにつながるかもしれない。「登校拒否? 病気でしょ」、「ずる休みは非行の始まりだよ」、「不登校はねー、あの将来性のなさがどうも……」と思ってる人でも、自信に満ちた成功者の姿を見れば、考えを変えてくれるかもしれない。でも、そういうイメージを作るために、切り捨てられていくものがある。汚いもの、臭いもの、暗いものは、抜き取られていく。貴戸理恵常野雄次郎不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』p.139)
Aという偏見に対して、「そうじゃない!Bがリアルなんだ!」という対抗言説をぶつけると、Aのひとや、AでもBでもないひとの存在が見えづらくなってしまったり、「ここまでは仲間だけど、ここから先は仲間じゃないよ」と線引きしてしまうことに繋がってしまったりする可能性がある、ということを考えなければいけない。
 
私たちは、”フツーに”暮らしているLGBTや周りの目を気にしながら暮らしているトランスジェンダーのみに権利を保障すればいいのではないし、一生懸命働いている貧困状態にあるひとのみを支援すればいいわけではない。変態のLGBTにも、なまけものの貧困状態にあるひとにも、特に周りの目を気にせず暮らしているトランスジェンダーにも、あるいはあらゆる犯罪者にも、さまざまな権利の保障が必要であり、支援を受ける権利があり、そのひとたちのジェンダーアイデンティティやセクシュアル・オリエンテーションは尊重されるべきだと言わなきゃいけない。
 
そして同時に、偏見や差別を指摘するときの言い方には慎重でなければならない。誰かを不可視化してしまったり、無為な分断を生まないように。
 

視点を変えてみる

と、ここまで考えて、一息ついて、アレ? と思う。わたしはどの立場で、誰に対してこれを書いているのだろう。これまで書いてきたことは、支援者やアライと呼ばれるようなひとたちを含め、より多くのひとに対して「こうしていきましょう」と呼びかけてみるようなものになっていると思われるが、そうではなくて、社会から迫害され、傷つき、怒りや悲しみを抱き、プロテストしたりするような側の立場に寄って、このことについて書くことも必要なんじゃないか。
 
というか、わたしのマイノリティとしての立場性が、そうしろと言っているような気がしている。中立ぶってんじゃねーぞ、と。冷静を装ってんじゃねーぞ、と。もっと怒りを爆発させろ、と。じゃあ、ちょっと視点を書いてもうちょっと書いてみるか。
 
まず、この社会には偏見が溢れている。それに対して、マイノリティたちはさまざまな形で反論したり、茶化したり、偏見や間違った見方を過度に演出して見せたりと、いろいろなかたちで対抗したりしなかったりする。生き方も考え方もさまざまだ。そのすべてが称揚されるわけではないかもしれないし、偏見を持つひとたちの側から揚げ足取りの材料にされることだってあるわけだが、それでもそのような表現や生き方は多様であっていいと思うし、そうあるべきだとも思う。
 
ハッピーでキラキラしたマイノリティ”だけ”に権利を保障するのではなくて、ときに憎たらしく、生意気で、変態で、なまけもので、マジョリティと同様に犯罪を犯してしまうひともいる、そんなマイノリティにも権利を保障する。いや、むしろそういうマイノリティの権利を保障してこそ、ではないだろうか。リアリティのないキラキラ物語にはうんざりだ。
 
……と、なんかフツーに当たり前のことを長々と書いてしまっているだけな気がして、恥ずかしくなってきた。けれど、現実に起きている事象を見てみると、モデルマイノリティと呼ばれるような、いわゆるマジョリティに迎合的なマイノリティだったり「社会に悪影響を及ばさない」マイノリティのあり方”だけ”が大きく取り上げられてしまっているような気がしてならないのだ。だから、フツーに当たり前のことかもしれないけれど、何度でも何度でも繰り返し強く言っていきたい。
 
変態のLGBTにも権利を保障しろ!
 
なまけものの貧困状態にあるひとにも支援を!
 
特に周りの目を気にせず暮らしているトランスジェンダーがいたとして何が悪い!
 
犯罪者にだって人権や尊厳がある!