おさむです。
とある方がブログでリアル*1の体験談記事を書いていて(現在は削除された様子)、それを読んでいろいろ思い出しました。
いまから数年前、大学生のとき、ぼくも何人かのひととリアルをしてカフェでおしゃべりしたりしていました(もともとアプリで知り合ってリアルして…というのが得意でなかったので、交流イベントやLGBTサークルに参加して出会うことのほうが多かったですが)。
楽しい時間を過ごせたひともいれば、話が続かなくて気まずい空気が流れたときもあるし、相手がゲイリブを茶化していたので反論してケンカ別れしたこともありました。恋愛に発展しそうになったことも何度かあったけれど、結局うまくいきませんでした。アプリで知り合ったひととそういう関係になった試しがありません。
先の記事のように、「もっとうまく話せたらよかったのに」「あのときあんなこと言わなければよかったのに」と後悔したことは何度も何度もあります。それはリアルのときだけじゃなくて、友達と遊んだときや、社交の場などでもあります。
ここ最近はリアルはしていないけれど、あの緊張感のなかで初対面のひとと話すっていうのは、なかなかハードなことだよなあ。
反コミュ力の狼煙
ビジネスの領域ではいまやお馴染みの言葉「コミュ力」ですが、これが「うまくひとと話せる能力」のことを指す言葉だとしたら、それってどうなのかなあと疑問に思ってしまいます。
まず第一に、それが個人の能力というよりも個人間の関係性や相性、本人のコンディション、シチュエーションなどによって大きく左右されるものだと思うから。一般的にコミュ力が高いとされているひとって、そういう諸条件に関わらず誰とでもうまく話せるみたいな評価されてますけど、ぼくから見ると、そういうひとって相手に負荷をかけてる気がするんですよね。少なくともぼくは、一般的にコミュ力が高いとされているひとと話すのって苦手です。すごい気を使うし、疲れるから*2。逆に、コミュ力が低いと評価されるようなひととぽつぽつ話をするほうがずっと楽しいし、気楽です。
次に、「コミュ力」とか「女子力」とか「人間力」とか、◯◯力って言葉がどんどん作られているけれど、こういう言葉って定義が曖昧なものばかりだから、「◯◯力が足りない」って考えだすと無限に足りない気がしてくるんですよね。「体重をあと5kg落としたい」だったらゴールが明確だけれど、「痩せてキレイになりたい」だとゴールが不明確で、場合によっては摂食障害に陥ってしまうこともある、みたいな。だからあんまりコミュ力とか人間力とか高めようと思わないようにしています。危険です。
もちろんコミュニケーションの技術を高めることは可能だと思います。あいづちの打ち方とか、表情筋とか。そういうのってゴールがある程度明確だから問題ないと思うんです。問題なのは、ゴールが不明確すぎるあまりにその◯◯力が全然足りないように感じてしまって、それがついには無限の自己否定に繋がってしまう可能性があるということ。
おわりに——リアルと「コミュ力」
そうはいっても自分にはまだまだ改善の余地があるし、コミュ力みたいなものを掲げて自己啓発しなければいけないんだ、というのも分かります。
でも、やっぱりどうしてもうまくいかないときだってある。それはしょうがない。つい自分を責めて、「もっとうまく話せたらよかったのに」などと後悔してしまうけれど、やっぱりそれはしょうがない部分があるんだと思います。個人の能力だけの問題ではないのだから。そんなに自分を責めないでほしいです。
そんな感じでーす。リアルまたやりたいな。