梅雨明けが待ち遠しいおさむです。
ふと振り返ってみたら、いまから半年前に書いた記事が「精神科に通い始めて半年」だったので、つまり、通い始めてもう1年が経ったんですね。あっという間だわ。
通院、薬、生活リズム
いまは3週間に1回くらい通院していて、担当医との関係は良好です。エビリファイとレキソタンっていう薬をもらって飲んでいます。副作用とかも問題ないです。認知行動療法も並行してやっていくという話もありましたが、職業訓練やらコロナやらで慌ただしくて中断しています。
まあ状況は悪くないんですけど、ただ、いまいち薬が効いてるのかよくわかんなくて、5月の頭からしばらく服薬を(勝手に)やめてみたところ、生活リズムの乱れもあってかすごいうつになりました。やっぱり薬飲んだほうがいいのかも、と思って、服薬再開しました。それでも気分の波はあって、ここ最近は短い周期で上がったり下がったりしています。
この間の自己観察によって、生活リズムと気分の波は連動しているように思えてきました。不登校だった頃の名残りかもとか思っていたけど、たぶん違う。気分が良いと生活リズムは安定する(早寝早起きになる)し、気分が落ちると生活リズムも不安定になる。じゃあどうすれば気分を良くしていられるかっていうのが問題なんだけど…。
(こんな記事も書いてましたね…)
自分の薬をつくる
そんなこんなで「自分」という未知の存在との対話を試みているわけですが、例えば、友人と自主ゼミをやったりしています。坂口恭平の「躁鬱大学」というテキストをもとに、ぺちゃくちゃ喋っているだけなんですけど、いろいろと発見やアイデアがぽんぽん出てきて楽しいです。
坂口恭平の新刊『自分の薬をつくる』も買って読んでみました。「躁鬱大学」と重複する部分もあって、とても面白かったです。タイトルにあるように、自分で自分の薬をつくってみるという考え方って、いまのぼくにビビッときました。効いてるのかよくわからない薬を飲むだけじゃ改善する気がしないというか。(服薬も続けつつ)自分で自分を診療してみる=当事者研究をしてみる。そう考えるとなんかワクワクしてきました。
とりあえずこの本をじっくり読んで、自分の薬をつくってみようと思います。
雑に、テキトーに
『自分の薬をつくる』では、テキトーなアウトプットが推奨されていました。人間って、映画を見たり街中を歩いてみたりと、インプットは雑多にやるのに、アウトプットするとなると急にかしこまったりしてしまう(「絵なんて下手くそだから描けません」とか「楽譜読めないし弾けません」とか)のはなぜなのか。もっと雑に、テキトーにアウトプットしていいのではないか。何か崇高なものを作ろうとしなくていい、(排便みたいに)ただ出したいから出すので結構*1。そんなことが書いてありました。
ぼくにとってアウトプットの手段はいくつかありますが、例えばブログを書くとなるとちょっとあらたまってしまいます。いいものを書かないと、とか、コンテンツとして成立させよう、とか。そういうのがやりたいひとはそうすればいい。その一方で、ただウンコ出したいから出すだけっていう記事もあっていいのかもしれません。
あと、緊急事態宣言の発令中に再開したウクレレもアウトプットの手段になっています。こっちはうまく弾こうなんて思っていないので、自由にポロンポロン弾いています。下手くそだけど楽しいです。ウクレレを弾いていると穏やかな気持ちになるし、毎日弾くということが、日課が、気分の波を穏やかにしているのかもしれないとも思います。
作るって行為は別に正解するためにやるわけじゃないし、意味のためにやるものでもありません(坂口恭平『自分の薬をつくる』p.107)
いつかウクレレ弾いてる様子を公開したいです。おわり。