にげにげ日記

にげにげ日記

(元)不登校ゲイの思索

千葉雅也『デッドライン』を読んでうだうだ考えてみた。

おさむです。

 

千葉雅也『デッドライン』を読みました。

 

デッドライン

 

デッドライン

デッドライン

  • 作者:千葉 雅也
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/11/27
  • メディア: 単行本
 

 

思いのほかビターエンドで、ずしーんときています。円環構造を切り裂く<時間>という現実。主人公はこれからどう生きていくのか、気になります。

 

修論に取り組むストーリーと同時に、主人公のセクシュアリティに関するストーリーがぐるぐる回っていて、この点がすごく気になりました。ゲイである主人公の、思考、生活、哲学との向き合い。

「そうそう、そうだよね」と共感する部分もあり、なんだか胸を打たれる部分もあり、考えさせられました。

 

ノンケとの<距離>

主人公はゲイであることを周囲の友人らに明かしています。ノンケの友人らとの間にある<距離>を、日常の中で、些細なことを通して何度も確認します。

 

苗字で呼び捨てにされると、恥ずかしさが一瞬湧き上がる。でも、それに新鮮な喜びがあった。なぜなら僕はずっと、互いを呼び捨てにするような男同士の関係性の外に置かれてきたから(p.10)

 

苗字で呼び捨てにすること。そこの手前に何かハードルとか幕とかがあって、こちらとそちらで分け隔てられている。ぼくは向こう側にはいけない。「男同士の関係性の外に置かれ」ている。そんな風に感じることがぼくにもあって、共感します。

 

苗字の呼び捨て以外だと、「俺」という一人称を使うこととか、「ご飯」ではなく「飯(メシ)」と言うこと、とかも該当するでしょうか。

 

さて、ノンケは、また別のやり方でぼくらに<距離>を感じさせます。

 

 半分まで減ったジョッキに手を伸ばすと、リラックスした安藤くんが、

『◯◯はステディな人っていまいるの?』

と、僕を見る。安藤くんもノンケなのだ。僕は、安藤くんもリョウも実はちょっと怖い。

ステディな人。というのはいかにも紳士的な言い方だけれど、彼氏って言えばいいのにと思う。そう直接に言うより僕を尊重しているつもりなのだろうか(p.41)

 

「ステディな人」という言い方。あえて迂遠な言い方をする。配慮しているつもりかもしれないが、ぼくはそこに<距離>を感じる。*1こちらとあちら。そして主人公は、ノンケの友人らに「ちょっと怖い」という感情を抱いている。

 

ちょっと怖い。それってどういう感情なんでしょう。

 

ノンケの<速さ>

主人公は、ノンケの友人らとの差異を繰り返し確認します。「速度」という表現を用いて。

 

僕の体は遅い。ノンケの友人たちは、僕とは絶対的に異なる速度を生きているかに思えた。安藤くんやリョウや篠原さんと同じく、Kもノンケなのであって、彼らは僕を無限の速度で引き離していく。安藤くんの眼差しのまっすぐさ。あれは速度なのだ。無限速度(p.113)

 

この速度が、まっすぐさが、「ちょっと怖い」に繋がるのではないか。そう考えると、なんとなく分かる気がします。<速さ>かあ。<速さ>ねえ。なんとなく分かるような、分からないような。なんなのだろう、これは。

 

もうちょっと考えてみます。

 

ノンケが速くてまっすぐなのに対して、主人公は、ゲイというものは、遅くてカーブしているのだと言います。

 

だが僕の眼差しはカーブする。それどころかカーブしすぎて引き返し、眼差しは僕自身へ戻ってきてしまう。僕の眼差しは釣り針のようにカーブして男たちを捕らえ、そして僕自身へ戻ってくる。

僕は、僕自身を見ている。

そしてこれは僕だけのことではないと思う。男を愛する男は多かれ少なかれそういうものじゃないかと思う。男を愛する男の眼差しはカーブし、その軌道で他の男を捕らえ、自分自身に戻ってくるのだ(p.113)

 

「僕は、僕自身を見ている」。つまり、眼差す主体であると同時に、客体でもある。そこにあるカーブ。一方で、ノンケは、ひたすら主体でしかない。客体になれない。そこにある純粋さ、無垢さ。それが「速さ」や「まっすぐさ」なのかもしれない。

 

支配者への恐怖と欲望

眼差す主体(でしかない)存在への恐怖があると同時に、主人公はそれを欲望してもいます。どうしてもつい欲望してしまう。

 

荒々しい男たちに惹かれる。ノンケのあの雑さ。すべてをぶった切っていく速度の乱暴さ。それは確かに支配者の特徴だ。僕はそういう連中の手前に立っていて、いや、その手前で勃っていて、あの速度で抱かれたいのだ。批判されてしかるべき粗暴な男を愚かにも愛してしまう女のように(p.122)

 

速くてまっすぐなノンケ=眼差す主体は、ただそれだけで有害だと言うことはできませんが、それが純化されてマッチョに染まっていくと、それは「批判されてしかるべき」ものになっていく。

それでも、そのようなひとを欲望してしまう。うー、わかる。わかってしまう。

 

一方で、やっぱりふとした拍子に、その「雑さ」「乱暴さ」にうんざりしてしまうこと、あります。「あー、出た出た」って。

 

閑話休題。その欲望は、「セックスしたい」という欲望だけではありません。そう、カーブする。カーブして、「自分自身に戻ってくる」。つまり、その欲望する相手のような存在になりたい、と欲望してしまうのです。

 

僕は女性になることをすでに遂げている気がする。物理的にメスになるのではなく、潜在的なプロセスとしての女性になること。僕の場合、潜在的に女性になっていて、動物的男性に愛されたいのだが、だがまた、僕自身がその動物的男性のようになりたい、という欲望がある……(p.122)

 

「動物になること」「女性になること」という哲学の議論を受けて、主人公は自分を省みます。ぼくはこれらの議論についてよく知らないのですが、とにかく2つのベクトルが(少なくとも2つは)あって、主人公はその両方の矢印を持っている。

 

僕はぐるぐると謎の周りを回り続けていた。[…]僕の円環にも二つの方向があった。動物あるいは男性になる方向と、女性になる方向だ。だが、その二方向が、紐で縛るように狭まっていき、僕は、ただ僕一人が立てるだけの狭さへと閉じ込められつつあった。僕は自分を軸にしてただ独楽のように自転しているみたいだった。だから書き進まない。錐で穴を空けるみたいにその場で回転していて、言葉の線ができない。だが、締め切りの冬は確実にやってくる(p.129)

 

2つの矢印が足場を狭めていき、身動きが取れなくなっている。締め切り(デッドライン)を前にして、その場で自転することしかできない。

 

ぐるぐる回る

眼差し、眼差され、そして眼差す主体を(恐怖しつつも)欲望し、その主体になりたいと欲望もする。カーブを繰り返し、ぐるぐると回っていく。

 

「男性」と「女性」、「人間」と「動物」、「支配」と「被支配」。狭まっていく足場に立ち、ただぐるぐると回っていく。

 

円環は、この小説で何度も出てくる構造です。起点が終点になり、起点に回帰する。その円環を切り裂く<時間>という現実。途切れた円環は、また別の円環へと変化していくのでしょう。

 

繰り返しになりますが、円環から外れた主人公がこれからどう生きていくのか(次はどんな円環に入っていくのか)、気になります。

 

ノンケとぼくの関係

ぼくも普段、ノンケのひとたちと付き合いながら生活を送っています。ノンケのひと、多いんですよね。あちこちに分布している。

 

そんで、<速さ>がある。まっすぐで、純粋で、無垢な感じがする。そこに引け目を感じてしまったりさえする。遅くて、カーブしていて、不純で小賢しいぼくと比較してしまって。

 

でも、こうやってつらつらと考えてみると、そこに引け目を感じてしまう必要はないというか、「遅くて、カーブしていて、不純で小賢しいぼく」にプライドを持ってもいいのではないかと思いました。むしろ対置させてやる、くらいの意気込みで。

 

それができたらすごいと思う。それこそプライドだと思う。「クィアでなにが悪い?」と言葉の再領有をしてきた先人たちに習っていきたい。

 

おわりに

引用していくうちにどんどん考えが拡散していってしまいました。

 

ぼくが特に共感したのは、ノンケとの<距離>や<速さ>の部分。2つの矢印に挟まれてぐるぐる回る部分はまだしっくり来ていないけれど、この文章を書きながら考えてみて、言いたいことはなんとなく分かりました。

 

「動物になること」「女性になること」あたりの議論を読んでみたほうがいいかもしれない。千葉雅也の哲学について、ちょっと勉強してみたいという気持ちです。友達を誘って読書会やってみようかしら。

*1:著者の千葉雅也は、「アライ」への疑念を表明しているのを読んだことがあります。