『終わりに近づく世界であんたは』
ノンケウイルスにかかれば、泰造ともまた、本当に純粋な、男同士の友達になれるかなとも正直考えた。でも、それって俺が望むことなのかな。俺と泰造の、あったかもしれない未来は、そこじゃなかったはず。
それよりなにより、カズヤ、俺はやっぱりあんたを残してあっち側には行けない。あんたとノンケ同士の友情を育むのもまっぴらごめん。あんたと俺はずっと、カズヤとタツヤでしょ。
人生やり直しスイッチはもう押さない
『終わりに近づく世界であんたは』では、「ノンケになる方法があるとしたら、あなたはどうする?」という問いに対して、上述したような”まともな”向き合い方はせず、「カズヤとタツヤの絆」をアンサーとして差し出すのみ。「え、それがアンサー?」と不満に思うひともいるだろう。ぼくもちょっと思った。もっとうじうじと葛藤してくれたほうが分かりやすいのに、と。でも、そもそもマイノリティであることに理由なんてないのだ。説明なんてできっこない。そういう居直りの姿勢が読み取れる。
また、こういう風にも読み取れる。このアンサーは、ゲイサークルで発表する作品としては最高のアンサーなのではないかと。つまり、そこに仲間がいるから、そこに友人がいるから、だからぼくはぼくのままでいたいのだ、と。それは例えば、ドラマ「カルテット」第9話で高橋一生が演じる家森諭高が言ったことと符号する。
人生やり直しスイッチがあっても、もう僕は押さないよ。だってみんなと出会ったから。
マイノリティとしての葛藤や生きづらさを抱えながら、それでも永劫回帰のような思想を持てるとしたら、 そこで育まれた絆や関係性によるものなのかもしれない。そんな風に思えた。
余談:映画『バイバイ、ヴァンプ!』はなにがマズかったのか
『終わりに近づく世界であんたは』の設定を反転させた作品として、映画『バイバイ、ヴァンプ!』が思い当たる。前者が「ウィルスに感染するとノンケになる話」で、後者が「ヴァンパイアに噛まれると同性愛者になる話」。対照的なようだが、しかし後者は、描写が差別的だとして批判の的になり、上映停止を求める署名運動も起こされた。
何が問題だったかって、描いているものがまったく違うからだ。『終わりに近づく世界であんたは』が、ノンケ社会におけるゲイというマイノリティが生き抜く様を戯画的に描いている一方で、『バイバイ、ヴァンプ!』はノンケの同性愛嫌悪(ホモフォビア)をただ無思慮に炸裂させているだけだ。こうやって対比させると、後者がいかにひどいか分かる。