にげにげ日記

にげにげ日記

(元)不登校ゲイの思索

【感想】綾屋紗月・熊谷晋一郎『発達障害当事者研究——ゆっくりていねいにつながりたい』

友人とやった読書会で取り上げた一冊。医学書院の「シリーズ ケアをひらく」のシリーズ書籍で、このシリーズだと東畑開人『居るのはつらいよ』、國分功一郎『中動態の世界』、坂口恭平坂口恭平 躁鬱日記』など読んできたが、どれも良書ばかり。

 

 

当事者研究とはなにか

選書の理由としては、その友人と話しているときに「当事者研究をやってみたい」という話になり、それではまず当事者研究の本を1冊読んでみようということになったから。

 

ちなみに当事者研究とは何か、ぼくなりの解釈でいうと、「なかなかひとに分かってもらいづらい病気や症状、特徴について、医者などの専門家による分析や診断を一旦脇に置き、似たような『生きづらさ』を持っている仲間たちの力を借りながら、自分の体験を語っていくこと」。

 

本書では、著者である綾屋紗月さんが、幼少期からいまに至るまでに抱えている困難や生きづらさについて、自身の体験や身体の声に耳を傾けながらじっくり説明していく。タイトルには発達障害と書いてあるし、文中でもアスペルガー症候群自閉症スペクトラムという概念も出てくるのだが、それらの特徴や症状がどうこうではなく*1、あくまで自分の体験や身体の声に耳を傾ける姿勢を貫いているように感じた。

 

自分とは何者なのか

著者は繰り返し「自分とは何者なのか」と自問する。その問いが求めているのは、神秘的な意味でもないし、就活における自己分析とも違うし、「自分らしさ」という曖昧なものでもない。日常生活を送っていて、どうしてもひとと同じようにできないこの自分という存在を、どう納得すればいいのか思い悩むのだ。

 

例えば、1章の5節「風邪かな、うつかな、疲れかな」では、疲れているわけではないのに体調が良くない状態(身体が重い、ゾクゾクと寒い、頭がボーッとする、とにかく眠い、食欲はないが膨満感と吐き気がある、熱はないが鼻がぐしゅぐしゅしている)が続くことについて、その原因を絞りきれない困難もありつつ、「結局、『よくわからないが、自分はひ弱で虚弱で極度に疲れやすい人なのかも』と自分の体質を受け入れることで、これまで『一見他の人と何も変わらないようなのに、いろんなことが人並みにできない自分』という存在を納得させてこなければならなかった」としている。

 

体調不良の原因を特定できないままに、「普通」とされているものに自分を合わせて無理をしてしまう。そうしてまた疲弊する。このような態度は、「外側からは見えにくい(したがって自分からも見えにくい)障害をもっている人たちに、共通してみられる傾向」らしい。このような困難からも、「自分とは何者なのか」という問いの切実さが読み取れる。

 

グレーゾーンの困難

「普通」ではない自分というものを発見し、認めることそれ自体も大変な作業なのだが、そのあとも大変だ。何らかの病気や障害があること、マイノリティであることを認めることの困難もあるし、「普通」とされているものと「普通じゃない」とされているものの間にあるいわゆる「グレーゾーン」の困難もある。◯◯の特徴を備えているが診断基準から外れてしまっているとか、頑張れば◯◯することはできるがそれがとてもしんどいとか。

 

例えば、保護者は子どもに「学校へ行きなさい」と言う。そこでもし子どもが熱を出していたら、学校へ行くという責任を免除し「今日は家で寝ていなさい」と言うだろう。病気やいじめなど分かりやすい原因があれば、このように「学校へ行く」という責任を免除される可能性が高いが、分かりやすい原因があるわけでもなく、ただなんとなくしんどいとか行きたくないということだったら、なかなか理解されづらい(だから仮病というものがある)

 

著者は、聾者のコミュニティやアスペルガー症候群自閉症スペクトラムなどの概念と出会うも、そこからはみ出してしまうものや、それらの概念では語り尽くせない固有の体験を持っている。そのグレーゾーンを認めていくプロセスについては、本書の終盤で、共著者である熊谷晋一郎さんの発言が端的に表しているように思う。長くなるが引用したい。

 

綾屋さんは、家事をすることはできるのだがそれをすることが大変で、なので母親にアシストしてもらうように頼みたい。その説明をするにあたって、熊谷さんは次のようにアドバイスをする。

 

『これまでなんとかギリギリできてきたが、これからはアシストしてもらう』ということを説明するときには、コツがあります。決して『自分は家事ができないのだ』と言わないことです。そんな風に表現すると、人は『でも今まではできたではないか』『できるところまでがんばってみようよ』『できないといってあきらめて、怠けている』『だれだって大変だけどがんばってるんだよ!』というまなざしを向け、本人の努力が足りないという攻撃の手を休めることをしません。『できないことはしなくてもいいが、できることはしてもらわなくては困る』という議論に絡み取られてしまうでしょう。

しかし、そもそもがんばればがんばるほどできる範囲というのは広がってくるわけですし、『できるできない』の境界線はあらかじめ引かれたものではありません。『できるできない』という質的な二律背反ではなく、『できるけれどもどれくらいの負担がともなうか』という量的な問題で伝える必要があります。

だから『できるけどしません』と言う。これが大事です。ウソはついていませんし、むしろこっちのほうが正確です。自分だったら『自力でお風呂には入れるけれど、しません。自力でしようとして2時間も風呂にとられていたら、それだけで1日が終わってしまう』と言うのです(p.217)

 

できる/できないのグレーゾーンを認めていく

◯◯できる→だったらしなさい/◯◯できない→だったらしなくてよい、という二項対立を突き放して、「できるけどしません」というグレーの部分を認められるようになればいいなと思う。そうしてやっと、ひとは自分の身体の声に耳を傾けられるようになるんだと思う。何が苦手で、どういうときにしんどくて、何をすることが大変なのか。そうやって探っていくことが当事者研究に繋がるのではないだろうか。
 
それは時に孤独な作業になるかもしれない。しかし、「できるけどしません」というグレーの部分を認めていくことは、副題の通り、他者と「ゆっくりていねいにつなが」ることを可能とする条件のひとつになるんだと思う。そのことは、綾屋さんと熊谷さんの関係性ファミリーレストランでの出来事!)が雄弁に語っており、また本書の最後に載っているツーショットにそれがグッと凝縮されているような感じがした。
 
発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい (シリーズ ケアをひらく)

*1:おそらく著者にとっては、それらの概念との出会いも大きかったのだろうと思うが、本書においてはそれらの概念との出会いで「完結」はしていない。