引越し準備の合間に、雨宮まみ『東京を生きる』を少しずつ読んでいる。何年か前にも一度読んだのだが、改めて読むとめちゃくちゃ刺さる。めちゃくちゃエモい。雨宮まみさんとは同郷で、故郷への憎しみや東京で生きる(東京でしか生きていけない)ことの後ろめたさみたいなものを共有できるような感じがして、なおさら刺さる。
大学進学を機に上京してきたぼくは、何度か都内で引越しをしたのだが、一番長く住み着いたのが中野だった。ゲイのベッドタウン・中野。サブカルチャーの聖地・中野。お笑い芸人がたくさん住んでいる街・中野。思い返せば、いままで住んだ街のなかで最も愛着があるように思う(ていうか、これまで街に愛着を持つということがなかった)。
そんな中野とももうすぐお別れだ。
中野を生きる——ゲイのベッドタウン
初対面のゲイに「中野に住んでいます」というと、たいてい、苦い顔をされる。「あ〜、中野ね…」みたいな。やりまくりなんですね、みたいな。でも、考えてみると、ぼくって中野でゲイの友達1人もできなかった(笑)。リアルすら1回もしていない。中野だったらもういっそ新宿二丁目まで出ようよ、みたいな感じだった。
家を出ると、ほぼ必ずゲイっぽいひととすれ違う。スーパーへ買い物に行っても、休日の早朝に公園で過ごしていても、近場のカフェで読書していても、たいてい自分以外のゲイがいる/やって来る。デートしていたり、犬の散歩をしていたり、リアルしていたり。それが日常だった。ゲイのサークルの活動拠点になっていたりもしたので、ゲイの集団を目にすることも何度かあった。
ちなみに、中野にゲイが多い理由は、90年代に起きた「府中青年の家裁判」で原告に立ったアカーという団体の事務所が中野にあって、それで少しずつ集まってきたのだ、というようなことを読んだことがある。単純に、新宿が近いからってだけかもしれないけど。
ゲイを見つけて落ち着く
日常の中で、「自分以外にもゲイがいる」ことが目に見えて分かるっていうのは、なんか落ち着いた。他の街が落ち着かないというわけじゃないけど、無理に「フツウ」に迎合しなくていいんだなあ、みたいな。これ、ほかのひとに言ってもなかなか理解してもらえないんだけれど…。
例えばひとりでショッピングモールに出かけて、家族連ればかりでちょっと居心地の悪さを感じていたところ、ほかにおひとり様を見つけてホッとする感じ? 中野ではその「おひとり様」を結構な頻度で見るので、居心地が悪く感じることが少ないような気がする。ゲイ以外にもいろんなひとがいるから、自分がフツウじゃないとか気にする必要がなかった。
大学生のとき、友人が新宿二丁目について調査をしていて、ぼくもインタビューを受けた。「おさむさんはオープンリー・ゲイで、普段隠したりしなくてもいいのに、なぜ新宿二丁目に行くんですか」と問われて、ぼくは「逆です」と答えた。セクシュアリティをオープンにしていると、クラスや研究室、サークルなどでは「ゲイのひと」という認識をされる。悪目立ちする。でも新宿二丁目に行くと、そんな認識はされず、埋没してしまう。それが居心地が良いのだ、と。
ナカノナノカナ
中野の魅力はたくさんあるが、今回はゲイのベッドタウンというところに焦点を合わせて書いてみた。書きながら、いろんな思い出が蘇ってきた。
いま、中野を離れるのがとても悲しい。いつかまた中野に住めたらいいなと思う。その頃には再開発が終わってるのかな。体育館も区役所も新しくなって、駅ビルもできているだろうな。
そんなことを思いながら、引越し準備を進めている。引越し先も良さげな街なんだけれど。
住みやすい場所を求めて、東京にたどりついたわけではない。自分に合った街を求めて、東京を選んだわけでもない。そんな余裕のある気持ちで、じっくり考えて決めたことなんかじゃない。
(雨宮まみ『東京を生きる』pp.220-221)