おさむです。
先日、Amazon prime videoに追加された(prime会員だったら無料で見られるようになった)映画「ある少年の告白(原題:Boy Erased)」を見ました。
同性愛者の矯正施設に関する話なのですが、主人公が両親にカミングアウトするシーンのあの空気感というか手触りというか、とにかく生々しくて怖かった。もちろん施設の実態も恐るべきです。
『ある少年の告白』見た。つらい。矯正施設が、というだけじゃなくて、家族の反応含めてつらすぎる(あの空気!ラッセル・クロウの表情!)。矯正施設はこの社会の異物ではなくて、この社会のあり方の一部の表出でしかないのだと思った。 https://t.co/Un1OHkw2CI
— 元気のないおさむ (@nigenigeOsamu) 2020年2月24日
主人公は、のちに矯正施設での体験を本に書きます。文章を書くということのパワーを感じる展開でした。
ものを書くハードルの高さ
ぼくもブログに文章を書いています。はじめた当初と比べると更新頻度は落ちていますが、それでも書き続けています。それとは別に、とあるメディアで定期的にコラムを書いています。また、今度、発刊される雑誌に原稿を掲載させてもらうことになっています。
こうしてみると、文章を書くということが日常的なできごとになっているような気がしています。うまいとか下手とかじゃなくて、日常的に書くもの。家事をしたり、食事をしたりするのと同じような感じ。重い腰をあげたり、一念発起したりせずともサラッと書く準備ができる。
当然、コンテンツや文章の質についてはまだまだ思うところはありますが、文章を書くということについてのハードルや姿勢は変化しつつあると思うのです。
大学生のときは、レポートや論文を書くのにものすごいハードルを感じていました。書くのがだるすぎて、いつまでも部屋の掃除してました。あの頃と比べると段違い。
褒められる喜び
これはぼくがブログをはじめようと思ったきっかけでもある話なんですが。
先述した雑誌『LGBTのひろば』の原稿を書いて、編集者の方々に見てもらったとき、ものすごく褒めてもらいました。自分でもそれなりにうまく書けたなあと思っていたのですが、こんなにも褒めてもらえるとは思わなくて、本当に嬉しかった。
なんていうか、これまでにも描いた絵や作った料理について褒めてもらえるようなことはあったのけれど、自分が書いた文章を褒められるというのは、それらと比べても圧倒的に嬉しいできごとでした。
文章を褒められるのって、ぼくにとってものすごく嬉しいことなんだって、そう実感しました。なにか大きな価値を置いているんだなって。
絵を描くのをやめて
高校生のときは、美術部で毎日絵を描いていました。自分の心の内が作品に表れていく様が楽しくて、ぼくにとって芸術表現はなくてはならないものでした。
でも、大学生になって、あまり描かなくなりました。右脳から左脳へっていうか、芸術表現よりも言語表現のほうに偏重していきました。社会学や哲学、フェミニズム、クィア理論などを学びました。いっばい本を読んだ。
それは、学問としての楽しさというよりも、ぼくにとっては、生きのびるための知恵みたいなものでした。ぼくはどうしてこうなのか、社会はどうしてこうなのか、それではぼくはこの社会でどうやって生きていったらいいのか。そんなことがどうしても知りたくて、本を読み漁りました。
ぼくの抱えていた疑問の答えは、必ずしも本のなかにはありませんでした。でも、どうやって考えたらいいか、どう向き合うべきかというようなプロセスの方法論を学ぶことはできました。
文章を書くということ、それを褒められる喜びについて
読んで、考えて、また読んで、また考えて・・・と繰り返していくうちに、自分のなかに言葉が溜まっていく感じがありました。高校生のときはそれを絵に描いて表していたけれど、それを今度は言葉で書き表してみる。抱えていた疑問を問い直し、整理し、言語化してみる。
『ある少年の告白』の主人公も、そうやって文章を書いたのかなあと想像します。
ぼくにとって文章を書くということは、とても価値のあること、とても大事にしたいことです。それを仕事にするかどうかは別として、いますでに書いているし、これからも書き続けたいと思っています。書くべきことがあるうちは。