おさむです。
先日の記事で、「男らしさ」との距離の取り方の難しさについて書きました。
「男らしさ」には有毒性や暴力性があるから、なんとかそれを棄却したいが、つい「男らしさ」の競争に乗ってしまう自分がいる。あるいは、ゲイのモテ市場に乗ってしまう自分がいる。このジレンマ。
今回は、この点について、別の側面から取り上げてみたいと思います。
『明日は生きてないかもしれない……という自由』
年末に読んだ本の1冊、『明日は生きてないかもしれない……という自由』は、ウーマンリブの代表的な1人である田中美津の著書です。エッセイ集みたいな構成になっていて、田中美津の人柄や人生観が伺えます。
読み進めていると、ウーマンリブについて書いてある箇所で、何度も強調されていることがありました。それは、フェミニズムとウーマンリブとの違いということで、ウーマンリブは「とり乱す」ことを大事にする運動なのだということ。
「とり乱す」ことの大事さ
どういうことか。例えば、「はじめに」ではこのように書いてあります。
「嫌な男からお尻を触られたくない私」と、「好きな男が触りたいと思うお尻が欲しい私」。「触られたくない」は女共通の怒りだったから運動の大義となった。それに対し、「触られたい」の方は、いわば個人の欲望。大義と欲望――その2つは同じくらい大事。そう思う女たちが、私と共に立ち上がった。(p.6)
大義だけでは、自分にとって女性解放が建て前になってしまう。あくまで自分の快・不快とつながるものとして世界を把握していきたい……という思いが、リブの女たちには強くあったのです。(p.7)
このような「とり乱し」から始まったウーマンリブを、次のようにして捉えます。
大義と欲望の両方を肯定するから、時にその間で取り乱してしまう。しかし他の女たちと心を開いてしゃべってみると、「あら、あなたもそうだったの」と思うことが多く、そんな<個であり、そして面でもある>という存在が持つ力、その力でもって私たちは自分や世の中を変えていこうとしたのです。(p.6)
大義と欲望の間でとり乱すことが、「自分の快・不快とつながるものとして世界を把握」していくことに繋がり、そして他の女たちとも繋がっていく。とり乱すことで得られるものを一言で表すなら、「繋がり」だということでしょうか。
大義をかざすこと
一方で、フェミニズムの言説は「大義」だけであり、「スッキリとしてる分、個々の不安、懼れ、孤独とつながることばとしては弱い」(p.7)と思っているそうな。
この点はぼくには判断できないというか、フェミニズムもそう一概には言えないんじゃないかなあとは思うのですが。
でも、例えば、LGBTのアドボカシーにおいて「自分らしく生きる」という大義(というか、スローガン?)が掲げられることがあって、ぼくはそれに違和感を覚えています。
このスッキリした大義(≒スローガン?)は、社会的なインパクトを持っていることは分かるのですが、なんかちょっと浮いてるような、ぼくの実感とはかけ離れているような感じさえするのです。
だって、自分らしさなんて幻想じゃない? 市場の言葉じゃない? 「自分らしさ」を追い続けるのって、しんどくない? そんな言葉を使わないと要求できない人権ってなんなの?
大義は大事です。でも、それだけではいけないのかも、と思いました。ぼくはぼくの実感をもって、そこに関われるような運動がいい。そういうの探していきたい。そこから生まれる「繋がり」というものがあるんじゃないかと思います。
「男らしさ」と「とり乱し」
それで、話を最初に戻しますね。
ぼくは、男性学などが整理しているように、「男らしさ」の有毒性や暴力性から、それを棄却したいと思っています。でも、その一方で、「男らしさ」の競争からまだ降りられていないし、ゲイのモテ市場では「男らしさ」に優位性があるから、すなわちモテ市場からも降りられていない。
「『男らしさ』から距離を置こう!」という大義と、「でも、承認されたい。モテたい」という欲望との間でとり乱すぼく。
この「とり乱し」を肯定してくれるのが田中美津…と言いたいところですが、そうはいかないと思います。「男らしさ」は女性への暴力や搾取の上に成り立っている文化的・歴史的な産物ですから、この「とり乱し」を肯定することが、少しでも「男らしさ」≒女性への暴力や搾取の肯定に繋がってしまうのだとしたら、それは間違っている。
「男らしさ」を、女性への暴力や搾取から切り離すには、もっともっと社会や文化を変えていかないといけないと思います。
その上で、そのことを織り込んだ上で、「男らしさ」をめぐるぼくのこの「とり乱し」を大事にしてもいいんじゃないかと思います。
そこから始めることはできるだろうか。
引き続き、考えていきたいと思っています。