にげにげ日記

にげにげ日記

(元)不登校ゲイの思索

ブログ開設から2ヶ月経って思うこと。書けることは限られている。

おさむです。

 

2019年11月頭にブログを開設して、約2ヶ月が経ちました。記事数は約50です。

 

今回は、現時点での感想と考察みたいなのを書き留めておこうと思います。

 

 

日常を切り取ること

これは至極当たり前のことなのですが、日常すべてを書き記すことはできません。見るものすべてをカメラで撮影できないように。ていうか、そもそも「見る」ということそれ自体が、視界に入っているもののうちから見るものを選び取っている=編集しているわけで、ぼくらはすべてを見ることはできない。

 

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だから、それは仕方ないと割り切っている部分があります。ぼくも日常のすべてを開示する気はないし、日常の中で「これ、おもしろいなあ」「あとで振り返るために、まとめておきたいなあ」と思ったものだけを編集して記事にする。それでいいと思っています。

 

書けていないことのジレンマ

しかし、ジレンマが残ります。ぼくはあまりにも日常の些末なことしか書けていないのではないか? もっと重要なことを書き記すべきではないか?

 

例えば、さまざまなニュースについて。性暴力や同性婚に関する裁判とか、国会での動きとか。こういうことについて触れる必要があるんじゃないのか、と思うときがあります。状況はかなり逼迫していて、のんきに日常の些末なことをつらつら書いている場合じゃないのではないか、と。

 

当然、「そんな難しい話題について、ぼくに書けることなんてあるのだろうか」とも思います。専門的な知識があるわけでもないし、記者みたいに動きをずっと追っているわけでもないし。でも、どうしてもジレンマがあるのです。

 

「ぐるりのこと」を書く

この「書けることは限られている」ということに関連するでしょうか、田中美津『明日は生きてないかもしれない……という自由』(2019年、インパクト出版会)という本にはこのようなことが書いてあります。

 

私の抱えている苦しみは、私が『女であること』と深く関わったものだった。そして自分のぐるりのことから世界へとつながっていかないと話せないのが女で、ぐるりのことから話そうとすると言葉に詰まるのが男だということにも気がついて……。(p.114)

 

 

田中美津ウーマンリブ運動の代表的な人物の1人です。ここでは、本質主義的に男/女と分けて語っているのではなくて、ジェンダーとかマジョリティ/マイノリティという関係性とか、そういう社会的・文化的なものとしてこのように分けて言っているのでしょう。

 

だとすれば、ぼくは男性ジェンダーを生きているとはいえ、ゲイというマイノリティとして、ぐるりのことから世界へとつながっていく道をこのブログでつくっている・歩いていると言えるのではないか。

 

そんな風に――期待を込めて――考えました。書けることは限られているけれど、でも、書けることはある。その書けることを通して、世界へと繋がっていくことができるのかもしれません。

 

身の回りのことに注視すること

また、ブログ開設以前には「なんとなく」で過ごしてしまっていたことを、よく見たりよく考えたりするようになった点は良いことだなあと思います。

 

本の感想をまとめてみたり、身の回りで起きたことを言語化してみたり、そういったことを継続的に行うことがどういう意味を持つのか。まだ全体像は見えませんが、「よく見る→よく考える(材料を探して回る)→言語化してまとめる→さらによく見るようになる」というサイクルが楽しいです。

 

もちろんただ楽しいだけじゃなくて、多少の苦労があることなので、いつまで続けられるのか自信がありませんが、できる限りで今後もやっていきたいと思っています。

 

今後やりたいこと

やっぱりニュースになるような話題についても言及していきたいです。折を見て。そして同時に、日常的な記事も引き続き書いていきたいです。

 

記事が溜まっていくことは、思考が蓄積していくこととニアイコールなのかもしれないと思います。過去記事のリンクを貼って、また記事を書くことで、思考が展開したり深まったりしていく。そんなイメージで書いています。

 

ちょっと美化しすぎかもしれません。ただの雑文が溜まっていっているだけなのかもしれません。まあいいや。それでもいいから、もうしばらくは書きたいことを書いて、またそのうち振り返る機会を持ちたいと思います。