自己責任の時代
こちらの記事とも関連しますが、この頃やたらとよく見聞きする言葉のひとつが「自己責任」ではないでしょうか。
例えば、「奨学金の返済が苦しい」などと言うと、すぐに「自己責任だ」と非難されてしまう。
そもそもローンを組まないと大学へ通えないという制度自体が、世界各国のそれと比べるまでもなく、おかしいはずなのに。
責任は、「選ぶ」ということとセットになっています。あなたが選んだのだから、責任は取ってね、と。
責任とは、responsibility(応答可能性)のことであって、「責任を引き受ける」という用法がメインのはずが、なぜか「責任を押し付ける」という用法で使われることが多いような気がしています。その筆頭が、自己責任です。
ぼくらは何も選べない
「選ぶ」ってなんなんだろうって考えるときに、いつも思い出すのが、有名なよしもとばななの小説『キッチン』です。
人はみんな、道はたくさんあって、自分で選ぶことができると思っている。選ぶ瞬間を夢見ている、と言ったほうが近いのかもしれない。私も、そうだった。しかし今、知った。はっきりと言葉にして知ったのだ。決して運命論的な意味ではなくて、道はいつも決まっている。毎日の呼吸が、まなざしが、くりかえす日々が自然と決めてしまうのだ。そして人によってはこうやって、気づくとまるで当然のことのように見知らぬ土地の屋根の水たまりの中で真冬に、カツ丼と共に夜空を見上げて寝ころがらざるをえなくなる。
吉本ばなな『キッチン(角川文庫)』(p.134)
なにかを「選ぶ」というときに、ぼくらがイメージするのは、まったくフラットで、何者からの影響も受けないという状況ではないでしょうか。でも、実際には、ぼくらはいろんなものの影響を常に受け続けています。ぜんぜんフラットじゃない、無垢じゃない。
極端なことを言ってしまうと、ぼくらは何も選べない。
学校へ行くか行かないか
不登校が「学校恐怖症」「登校拒否症」などと呼ばれて、病理とされていた時代から、「不登校は病気じゃない!」と声が挙げられるようになり、やがて「むしろ、学校へ行かない選択をしたのだ」という『明るい不登校』物語がつくりあげられていきました(この系譜はいまに引き継がれています)。
しかし、この学歴社会において、「学校へ行く」「学校へ行かない」という選択肢が等価ではないのは当然のことでしょう。「学校へ行かない」選択をしたひとの教育を受ける権利を保障するための制度やシステムづくりはなされているが、それでもやっぱり等価な選択肢とはいえません。
そうして、「むしろ、学校へ行かない選択をしたのだ」と言うことによって何が押し付けられるか。そう、自己責任です。あなたが選んだのだから、責任はとってね。進学や就職が困難だとしても、その責任はあなたにあるんだよ。自己責任が謳われるとき、社会制度のおかしさや改善点は視界から消えてしまいます。
モヤモヤする
ぼくらは何も選べないかもしれません。それでも、「選んだ」ということにして、責任を引き受けるべきときはたくさんあります。それが近代社会のルールになっています。
でも、実際には何も選べずに不利益を被っているひとに対して「自己責任だ」と非難して憚らないひとがこの社会にはたくさんいて、それってなんか底が抜けてしまっていないか?と思ったりします。
なんでもかんでも「自己責任だ」と非難するのはやめにして、社会制度の改善に取り組むようにしたほうがいいと思います。じゃないと、社会のためにならない。
増補 不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)
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