にげにげ日記

にげにげ日記

(元)不登校ゲイの思索

自民党議員による差別発言を受けて、自民党本部前での抗議に参加してきた

エクセルシオールカフェ永田町店でアイスティーを頼んで、席まで運んでから気づいた。これ、アイスコーヒーじゃね? まあいいや、ちょうど少し眠かったしと思って、アイスコーヒーをちびちび飲みながらスマホTwitterを確認。自民党本部前には少しずつひとが集まってきているようだった。

 

ここ数年、たびたび話題に挙がってきた「LGBT理解増進法」が、とうとう立法化されるかということで議論されている。ただ、議論することそれ自体はいいと思うのだが、間違った情報や誤った認識が一部の政治家の間で共有されているようで、「これじゃあまともな法律はできないだろうな」と思わざるを得ないような状況。

 

www.huffingtonpost.jp

 

「種の保存に背く」「道徳的にLGBTは認められない」などの暴論もひどいが、山谷えり子議員によるトランスジェンダー差別的な発言も看過できるものではない。この報道があった日の夜、ぼくのTwitterのタイムラインでは怒りや疑問や不快感を表すひとがかなりたくさんいた。杉田水脈議員の一件を思い出さずにはいられなかった。

 

 

報道があった翌日、すぐに自民党本部前での抗議の呼びかけがあり、ぼくはそれに参加するために永田町へ向かった。早めに着いたので近くにあったエクセルシオールカフェで待機した。デモや抗議に参加するのは、2015年頃の安保法制反対デモに何度か参加して以来かもしれない。5〜6年ぶりだ。

 

アイスティーだったはずのアイスコーヒーを飲み干して、自民党本部前へ向かった。少し時間が早かったので、まだ10人ちょっとしか集まっていない。プラカードを持って待機していると、ひとがだんだん集まってきた。「差別をやめろ」「自民党は差別をやめろ」などのコールに合わせて声をあげたりあげなかったりしていると、身体の奥底に溜まっていた怒りや悔しい気持ちがじわじわと広がっていった。

 

どうしてこんな薄汚れた一部の政治家たちのせいで、ぼくらの人権や尊厳や安全は犯されなければならないのだろう。どうしてこんな差別発言を繰り返す政治家や政党がのさばっていられるのだろう。悲しくて悔しくて泣きそうになる。

 

誠実さのかけらもなく笑っている奴がいるよ

隠しているその手を見せてみろよ

——THE BLUE HEARTS「青空」

 

デモや抗議”だけ”をすれば社会が変わるとは思っていない。同様に、署名”だけ”をすれば変わるわけでもないし、選挙で投票”だけ”をしていれば変わるわけでもない。いずれも民主主義を機能させるための手段のひとつに過ぎなくて、これらを含めて、あらゆる手段を講じていかなくてはならないんだと思う。

 

そのためにも、中間集団が必要だと思った。個人と国家の間にある無数の中間集団。読書会や勉強会など形式はいろいろできそうだが、何かそういった集まりを作っていけたらいいなと思う。むき出しの個人は弱くて、デマやフェイクニュースなどにすぐにやられてしまうが、中間集団が機能することによって民主主義もまた機能するんじゃないかと思っている。

 

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カミングアウトしても「本当の自分」「ありのままの自分」にはなれません

職場で少しずつカミングアウトしている。長らくオープンリー・ゲイとして暮らしてきた身としては、思い切って一気に全員へカミングアウトしてしまいたいところだが、もしかしたら長く居座る職場になるかもしれないと考えると、慎重にならざるを得ない。とりあえず業務上よく接するひとにはカミングアウトをし終えた。

 

たしかに、カミングアウトをしていないときと比べると、カミングアウトをした相手と接しているときはいくらか息がしやすい感じがする。肩の荷が下りるというか。松田龍平の素晴らしさについて開けっ広げに語り合える職場、良き。だけれど、この状態を「本当の自分」とか「ありのままの自分」とか、あるいは「自分らしさ(がある)」などと思わないようにしようと意識している。

 

「私のどこが好き?」問答

なぜなら、突き詰めて考えると、「本当の自分」「ありのままの自分」「自分らしさ」といった言葉が感じさせる、キラキラ輝くこの世にたったひとつの個性のようなものなど存在しなくて、それらを追求しはじめるとドツボにハマってしまう「呪い」にかかってしまう可能性があるから。

 

大学生のときに、社会学の教授が講義で話していたことでよく覚えているものがひとつある。あるカップルの片方が、「私のどこが好き?」と相手に尋ねる。尋ねられたほうは、しばらく考えた末、「目が大きいところ」と答える。尋ねたほうは、それを聞いて不満そうにしている。「自分より目が大きいひとなんていくらでもいる」と。相手は、慌てて「手が大きいところも好きだよ」と言う。すると「自分より手が大きいひとなんていくらでもいる」と返される。この問答が繰り返される。

 

この話を聞いて、この世にたったひとつの「自分らしさ」なんてものは存在しないのだと思い知った。平凡な自分というものを受け入れていくしかないのかな、とも思った。ちなみに教授は、先のカップルの問答におけるベターな答えとして、「え、そんなところ?」と思わせるようなことを言えばいいのだと話していた。例えば、歩くときに左肩がちょっと上がっているところが好きだよ、とか。なんか納得した。自分らしさっていうのは、そういうどうしようもないところに表れるのかもしれない。

 

にんじんをぶら下げられた馬

実は存在しない「本当の自分」「ありのままの自分」「自分らしさ」は、美化され、ひとびとの行動のモチベーションに有効に働きかけるような機能を持っているように思う。少し話が逸れるが、数年前に電車で見た求人広告には「ここでなら自分らしく働ける」と書いてあった。もちろん消費を促す効果もあるだろう。マーケターやコピーライターが多用するわけだ。

 

閑話休題。もちろんこの異性愛中心主義でホモフォビック、トランスフォビックな社会で、クローズドなLGBTQの当事者が生きづらさを解消していくための目印として、「本当の自分」「ありのままの自分」「自分らしさ」などの言葉が使われることはあるだろうし、それ自体を否定したくはない。しかし、それらの言葉があまりにも多用されて、支配的な物語ドミナント・ストーリー)として普及するのはどうかと思っている。

 

例えば、「身近な存在としてのセクシュアル・マイノリティを可視化させ、正しい知識や理解を広げるきっかけ」になるよう実施されているプロジェクト「Out In Japan」では、市井のひとびとのポートレートと一緒に、そのひとのカミングアウト・ストーリーが掲載されている。これまでに2,000名以上がこのプロジェクトに参加しているらしい。

 

outinjapan.com

 

「ありのままで」のその先へ

大学生のときに、先に紹介した教授の講義のレポートで、「Out In Japan」に掲載されているカミングアウト・ストーリーを分析した。その結果、「本当の自分」「ありのまま」「自分らしさ」という言葉がいかに頻出するかを提示できた。「アナと雪の女王」がヒットした直後だったのもあって、特に「ありのまま」は多用されていた。

 

カミングアウトがうまくいけば、まわりのひととの人間関係が再構築され、より良い関係性が築ける。冒頭に書いたように、息がしやすくなる感覚があるかもしれない。けれど、カミングアウトがいつもうまくいくわけじゃないし、そもそもカミングアウトをしなければ異性愛者と見なされるこの異性愛中心主義の社会や、カミングアウトのハードルやリスク(あるいはアウティングのリスク)を高めるホモフォビアやトランスフォビアがいまだにこの社会で存在感を持っていることの問題性を忘れてしまってはならないと思う。

 

カミングアウトしても「本当の自分」「ありのままの自分」にはなれない。そもそもそれらは存在しないし、マーケティングの動機付けでしかないのかもしれない。鼻先にぶら下げられたにんじんではなくて、社会のあり方をこそ見つめていきたい。

 

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ボディ・ポジティブ、だけど痩せたい。年中ダイエッターの挑戦

体重が増減しやすい体質なのか、ふと気がつくと10kgくらい太っていたりする。その度にダイエットをして体重を戻している。20代前半まではそれがわりと簡単にできていたのだが、26歳(アラサー!)を目前にしたいま、なかなか体重が落ちずに困っている。

 

アラサー目前ゲイの生活習慣

なぜ体重が落ちないのか(むしろ増えるのか)といえば、とても単純なことで、食べ過ぎと運動不足のせい。パートナーと付き合い始めてから食べることの楽しさを知ってしまったし(パートナーのせいにしているわけではなくて)、もともとインドアなのもあってなかなか身体を動かさない。Fit boxingというボクササイズのゲームは地道に続けているけれど、それだけでは運動量として不十分なのだと思う。30代を目前にして、生活習慣を改める必要がある。

 

Fit Boxing (フィットボクシング) -Switch

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先日は、とあるアパレルショップで半ズボンを買おうと思って、念のためにいくつか違うサイズのものを持って試着室に入ったところ、どれもキツくて、一番大きいサイズさえも入らなくて*1、愕然としてそそくさとお店を出た。あれはマジでビビった。「いかがでしたか?」と訊く店員さんになんて返せばいいか分からなくて、めちゃくちゃ挙動不審になっていたと思う。

 

ボディ・ポジティブ、だけど痩せたい

そんなショッキングな出来事があって、さすがにヤバいと思って、キレイになるためにダイエットを決心しました。……なんて単純なストーリーを仕立て上げるのは簡単だが、現実はもっと複雑だ。

 

昨今、プラスサイズのかっこいいモデルさんを見る機会はグッと増えたし、「痩せている身体=キレイ」という美の定義は相対化され、太っている身体も含めてあらゆる体型を肯定する「ボディ・ポジティブ」というムーブメントも目立ってきている。それはとてもいいことだと思うのだが、ダイエッターとして考えると「キレイになるためにダイエットをするという定式は使いづらくなっている」とも言えて、何のためにダイエットをするのか、よくわからなくなってしまう。

 

何のためにダイエットをするのか。ボディ・ポジティブを否定せずにモチベーションを確保するためにはどうしたらいいのか。これがとても悩ましい。ここをクリアにしないとダイエットに踏み出せない。頭でっかちなぼくらしい。

 

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年中ダイエッターの挑戦

散々悩んだ挙句、とりあえず痩せることを第一目標にするのを諦めた。「運動量を増やしたり食生活を意識したりして、動きやすい身体をつくる」ことを目標にして、ついでに体重が落ちたらラッキー。それくらいの認識でいることにしてみた。

 

いちおう毎朝体重計には乗ろうと思うけれど、表示される数字に一喜一憂する必要はない。ウォーキングやFit boxingなど楽しく運動をして、バランスの良い食事を摂ることがまず大事で、その結果として体重が落ちたらいいし、仮に落ちなかったとしても問題ない。いまの体型も嫌いじゃないのだし。

 

長い目で見て、生活習慣を変えていく。2021年も残り3分の2だけれど、今年の目標はそれでいこうと思う。

*1:日本の服ってサイズが少ないとは聞いていたけれど、こういうことか!

高校生のときのぼくは、いまのぼくを嫌いだっただろう——いまの職場で2ヶ月働いてみた感想

いまの職場で働き出してから2ヶ月が経った。仕事にも慣れてきて、楽しいようなちょっと退屈なような複雑な気分で働いている。やりたかった仕事をやっているので基本的には楽しいのだが、単調な作業が続くとやっぱりしんどい。WEBってクリエイティヴなようでいて、かなり単調な作業が多かったりするよなあ。

 

単調な作業をしていると、退屈した脳が勝手に過去の黒歴史を遡り始めてとても困る。「あんなこと言わなければよかったなあ」「あれはもっとこうすればよかったのになあ」「どうしてぼくはこうなのかなあ」などと考えてしまっているときは、たいてい鬱に片足突っ込んでいる。レキソタンはちゃんと毎食後に飲んでいるのに、どうしてだろう。

 

鬱に加えて、先日はパニック障害を患っていることが判明した。電車に乗るときは、パニック発作が起きやしないかドキドキしてしまうし、職場で発作が起きたらどうしようと考えると胸がザワザワする。念のために薬は処方してもらっているが、発作が起きたときの「もうこのまま死んでしまうのかもしれない」というような思いはもう二度と味わいたくない。

 

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こんな感じで、なんとか日々をやり過ごして、サバイヴしている。

 

そんな折、高校時代の友人と話す機会があって、仕事の話や人生の話などいろいろと語り合った。高校生のときのぼくってどんなだったっけ、と振り返ってみる機会になった。おそらく、いまのぼくみたいな生き方や働き方って、当時のぼくは反吐が出るほど嫌いだっただろうなあ。

 

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高校生のときのぼくは、周りに流されるようにして賃金労働をしているひとが嫌いだった。社会や政治に目を向けず、ただ稼いだ金を趣味に費やすだけのひとが嫌いだった。日々をやり過ごすだけのひとが嫌いだった。「若気の至りってやつですね」などと一笑に付すことができればいいのだけれど、当時のそのような考え方の残滓がまだぼくのなかに残っているような気がして、そうすることができない。さらに、ブーメランとなっていまのぼくに突き刺さってくる。痛い、痛い。

 

勤労に励んだり、丁寧に暮らしたりするだけでも精一杯なのだが、それだけでは不十分だと高校生のぼくが怒っている。「まあまあ」となだめたりしながらも、その一方で「言ってることは一理ある」とも思う。世界的なパンデミックのなか、めちゃくちゃな為政者たちがめちゃくちゃなことをしているいま、ズタボロなぼくに何ができるか。なんとか時間を作って考えたいと思っている。

職業訓練を退校してから1年。職業訓練での思い出を振り返ってみる

職業訓練校を(実質的に)退校してから1年が経った。緊急事態宣言が発令されている中、休校措置が取られているのに、ぼくらのクラスだけ卒業延期できないから授業が再開されて、それに反感を抱いて授業を欠席したら、卒業させてもらえなかった。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

「授業はオンラインでできないのでしょうか。卒業は延期できないのでしょうか」などと質問してみたところ、Twitterで「自粛警察が出た」などと書かれた。ホントにひどい対応だった。いま思い返すと、講師の態度もひどかったし、退校する受講生があとをたたなかったのもそこに原因がある気がする。

 

ちなみに、ぼくが通っていたのはWeb制作の職業訓練校。HTMLやCSSJavaScriptなどのマークアップ・コーディングと、IllustratorPhotoshopなどのソフトについて学んだ。たった半年の期間しかなかったので、詰め込みに詰め込まれて大変だった。

 

こないだから勤めはじめたいまの職場では、Photoshopを使うことが多い。職業訓練校ではPhotoshopの使い方についても学んだのだが、マークアップやコーディングの比重が大きかったので、あんまり覚えていない。また一から学び直している感じ。

 

マークアップやコーディングについても、仕事で使うには使うのだが、部分的に弄るくらいしかしないので、ゼロから書くとなるともういろいろと忘れてしまっていて、たぶんまともに書けない。結局、復習しながら、学びながら仕事をするしかないみたい。

 

nigenige110.hatenablog.jp

 

受講生のみなさんとは、卒業してから1〜2ヶ月くらいは連絡を取り合っていたのだが、いまはもうほとんど取っていない。カミングアウトをしたひとりとだけは定期的に連絡を取ったり、一緒にサイト制作したりしている。ホントにそれくらい。まあ、もともとそんなに仲が良いクラスではなかったからなあ。

 

 

いろいろあったけれど、退校から1年が経ったいま改めて振り返ると、職業訓練校に通ったのは良かったかなあと思っている。ぼくの性格的に独学はできなかっただろうし、いろいろ学べたのは事実だし、履歴書や面接などで「Web制作に興味を持って、勉強しました」と説明するにあたって、職業訓練校に半年間通ったというのは分かりやすくていい。

 

とはいえ、コロナ禍での対応には不満が残るし、退校したことは間違ってなかったと思っている。ヤバいところからは逃げるべし。